黒人の聖徒と神権(1895〜1978年)

1895年から1978年にかけての黒人聖徒と神殿・神権制限に関する出来事。

世紀転換期とジョセフ・F・スミス時代(1885〜1915年)

1885年6月

アメリカ南部の州にいる末日聖徒の宣教師たちは、集会に来る黒人を歓迎します。[1] その集会は、クー・クラックス・クランから脅迫も受けます。[2]

1895年1月27日

神権の禁止に関して、セブンティ会長会の一人であるB. H. Robertsは[BIO]、イエス・キリスト、ジョセフ・スミス、そして黒人を含む「神に最も愛された息子たち」の中には、「最も激しい苦難を通るよう召されており、[そして]最も祝福されている」者たちがいると主張しています。[3]

1895年8月22日

使徒George Q. Cannon[BIO]は、少年時代にNauvooで、神権の制限はジョセフ・スミスに始まると教えられたことを回想しています。[BIO][4]

1902年1月2日

教会会長として、Joseph F. Smith[BIO]は、Brigham Young[BIO]が「黒人の血」が「一滴」でもあれば、その人は神権と神殿の祝福を受ける資格を失うと「強く断言していた」と回想しています。[5]

1904年3月16日

ジョセフ・F・スミス大管長は監督デイビッド・O・マッケイに手紙を書き、[BIO]この禁止に関する教えはジョセフ・スミスに由来すると述べ、また、イライジャ・エイブル[BIO]が神権を受けたのは、彼が「純血の黒人」ではなかったための例外だった可能性を示唆しています。[6]

1905年4月9日

ジョセフ・F・スミス大管長は総大会で、「白人ではないという不運を負っている」人々は、しばしば「自慢ばかりする多くの白人の兄弟たちよりも優れている」と述べました。[7]

1907年

神学の授業で、B. H. Robertsは、異人種間結婚を減らすために黒人と白人の間の社会的平等を制限することを支持して、学者のWilliam Benjamin Smith[BIO]を引用しました。[8]

1908年4月19日

不明の著者による「The Negro and the Priesthood」は、Liahona: The Elders’ Journalに掲載され、Brigham Youngが、黒人は神権を持つために必要な「生まれつきの霊的な強さを十分に備えていなかった」と教えたと主張しています。[9]

1908年8月26日

ジョセフ・F・スミス大管長は、十二使徒定員会との第一大管長会の会合で、黒人の神権へのいかなる聖任も「無効とみなされなければならない」と述べました。[10]

1912年2月6日

黒人の末日聖徒であるサミュエル[BIO]とアマンダ・チェンバース[BIO]は、亡くなった自分たちの先祖や友人のためのバプテスマで代理を務めるよう、白人の神殿奉仕者に手配したと伝えられています。[11]

1913年4月17日

ブッカー・T・ワシントン[BIO]は、ユタに住む黒人の末日聖徒であるサミュエル・チェンバーズ[BIO]から、「有色人種」は教会から「よく扱われている」と聞いたと報告しています。[12]

1915年

南アフリカ出身の黒人男性ウィリアム・P・ダニエルズは、ジョセフ・F・スミス大管長から祝福の中で、「いつの日か、おそらく来世で」ダニエルズが神権を持つことになると告げられたと報じられています。[BIO][13]

Heber J. GrantとGeorge Albert Smithの時代(1918〜1951年)

1921年

使徒デビッド・O・マッケイ[BIO]はこの制限の例外を求めましたが、Heber J. Grant大管長にرفض否されました。[BIO] その際、大管長は「その件について主がわたしたちに啓示をお与えになるまでは、わたしたちはその方針を維持しなければなりません」と述べました。[14]

1924年

全国組織のクー・クラックス・クランは、教会からの「強力な反対」にもかかわらず、ユタ州での会員数が大きく増加したと報告しています。[15]

1931年

使徒ジョセフ・フィールディング・スミスは、著書完全への道の中で[BIO]、黒人の聖徒に対する神権制限の起源をジョセフ・スミスに帰しています。[16]

1931年12月14日

黒人の末日聖徒ウィリアム・P・ダニエルズ[BIO]は、神権に聖任されていなかったものの、南アフリカのラブ支部の支部長として聖任されました。[17]

1940年1月25日

第一大管長会の顧問J・ルーベン・クラークの提案で、[BIO]教会は神権の資格に関する方針を見直しました。[18]「一滴でもあれば」という方針[19]は維持されました。[20]

1945年1月〜6月

エルダー・ハロルド・B・リーは一連のラジオ講演を行い、神権禁止について「前世」の理屈を示しました。これはおそらく、その理屈が最初に提案された例を表している可能性があります。[21]

1947年

黒人の聖徒であるLen[BIO]とMary Hope[BIO]は、Ohio州Cincinnatiの支部の集会に出席しないよう求められたため、自宅で聖餐を受けました。[22]

1947年7月17日

末日聖徒の社会学者ローリー・ネルソンによる懸念を示した手紙への返答として、[BIO]ジョージ・アルバート・スミス大管長[BIO]とその顧問たちは、前世における違いに基づいて神権の禁止についての理屈を述べ、その方針をジョセフ・スミスに帰しています。[23]

1947年10月9日

第一大管長会と十二使徒評議会の会合で、ナイジェリアのO・J・ウモンダクから自国に宣教師を派遣してほしいという要請が検討されました。[24]

1947年10月9日

J・ルーベン・クラークは、ブラジルで神権制限を運用するうえでの難しさについての懸念を強調し[25]、黒人の聖徒が「アロン神権の段階の働き」に携われる可能性を提案しました。[26]

1947年11月3日

BYUの学生への手紙の中で、デビッド・O・マッケイは、この制限の根拠としてアブラハム書以外は「ほかに知らない」と述べ、この制限は「前世にさかのぼる」と自分は信じていると述べています。[27]

1948年4月12日

第一大管長会の顧問J・ルーベン・クラークは、末日聖徒の病院に献血された血液を「この教会の人々の血統の純粋さを守る」ために分けて管理するよう勧告しました。[28] この時期、血液の分離はアメリカ赤十字の標準方針でした。[29]

1949

第一大管長会は、神権の制限についての問い合わせに個人的な書簡で用いるための標準的な回答を作成し、その中でこの制限は「方針」ではなく、「主からの直接の戒め」であると述べています。[30]

1949年3月3日

BYUの学生指導者たちは、人種差別に抗議するため、学生新聞BYU Universeに手紙を書きました。[31]

1951年4月10日

第一大管長会は、黒人の会員であるハーバート・A・フォードに、いつかこの制限が解除されるという約束を添えた思いやりのある手紙を書きました。[BIO][32]

1951年夏

3人の使徒がそれぞれ、黒人の末日聖徒であるアブナー・ハウエルとマーサ・ハウエルに、アメリカ合衆国のさまざまな都市にいる黒人会員のもとへ「伝道」に出るよう勧めました。[33]

デビッド・O・マッケイ時代(1951〜1958年)、人種隔離の廃止と議論

1952年6月17日

南アフリカ伝道部会長エバン・P・ライト[BIO]は、アフリカ系の人々への聖任を認めない厳しい要件のために、神権指導者を「ひどく必要としている」と第一大管長会に伝えます。[34]

1953年1月31日

アーネスト・L・ウィルキンソンは、デビッド・O・マッケイが自分に「有色人種に対する教会の関わりは、向き合って解決しなければならない最も差し迫った問題の一つだった」と話したと述べています。[35]

1954年1月

教会会長デビッド・O・マッケイは、南アフリカで白人の末日聖徒が神権への聖任の前にアフリカ系の血統ではないことを証明するよう求められていた要件を廃止しました。[36]

1954年3月

Sterling M. McMurrin[BIO]は、1954年3月に[37]、デビッド・O・マッケイ大管長が自分に対して、神権の制限は「教義ではなく慣行であり」、「その慣行はいずれ変更される」、また黒人に対する「神によるのろい」という「そのような教義は存在しない」と語ったと報告しています。[38] しかし、McMurrinは、マッケイがその制限について、高価な真珠を「聖文上の先例」として挙げたとも述べています。[39]

1954年5月13日

公開セミナーで、アダム・S・ベニオン[BIO]は、教会指導者たちが特別委員会で神権の制限について話し合っており、デビッド・O・マッケイ大管長は「主に嘆願した」が、その時はまだ「熟していなかった」と述べたと伝えられています。[40]

1954年8月27日

人種隔離の撤廃に関する画期的な連邦最高裁判決、ブラウン対教育委員会事件の判決を受けて、[41]使徒マーク・E・ピーターセンは公民権運動を非難し、教会の神権政策を擁護します。[42]

1954〜56年ごろ

マッケイ大管長は、黒人の祖先を持つと考えられていた2人のきょうだいに対して、それまで認められていなかった神殿の祝福を承認したと報じられています。[43]

1957年

カトリックの社会学者トーマス・F・オデア[BIO]は、モルモンという著書の中で「緊張と対立の原因」についての章を書いていますが、神権制限には触れていません。[44] 教会歴史家レナード・アリントン[BIO]は、この omission についてオデアに手紙を書きます。[45]

1958年5月13日

マッケイ大管長は、制限の対象となっていたポリネシア人の中で唯一のグループであるフィジー人に、神権への聖任を認めました。[46]

1958年10月11日

ジョセフ・フィールディング・スミス[BIO]は、主がその制限を取り除くまで、黒人は家長の祝福の中でアブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受けることはできないと述べています。[47]

1958年10月24日

ハロルド・B・リー[BIO]は、2人の黒人の末日聖徒の女性に対し、もし彼女たちが「忠実で真実なまま」であれば、神権に関する「教会の方針は変わる」と約束したと伝えられています。[48]

1958年

ブルース・R・マッコンキーは、黒人は「前世」において「勇敢さが劣っていた」と主張する『モルモンの教義』[49]の初版を出版しました。 [50]

デビッド・O・マッケイ時代(1959〜1968年)、公民権をめぐる論争、西アフリカでの始まり

1960

ユタ州立大学のジャーナリズム教授ジョン・J・スチュワートは、教会の神権制限を擁護した[BIO]モルモン教と黒人を出版します。[51]

1960年3月9日

BYUの人類学教授ジョン・L・ソレンソン[BIO]は、人種問題に関する第一大管長会への批判に対して、「黒人に関するモルモンの教義は、おそらく差別を伴う現実的な状況にはほとんど影響しない」と述べて反論しようとしました。[52]

1960年3月23日

BYUのDaily Universeは、Salt Lake CityのNAACP会長アルバート・B・フリッツ[BIO]が、プロボの公民権の状況は「改善した」が、ほんの数年前までは「ひどいものだった」と述べたと報じています。[53]

1960年11月10日

BYU学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、BYU理事会[54]の一員だった3人の使徒が「有色人種の学生をBYUから締め出すことに賛成していた」と報告しています。[55]

1961年2月24日

デビッド・O・マッケイ大管長は日記に、神権制限の「唯一の理由」はモルモン書にあると書いています。[56]

1961年9月

第一大管長会の一員であるヘンリー・D・モイル[BIO]とヒュー・B・ブラウン[BIO]への手紙の中で、末日聖徒イエス・キリスト教会から離れていた末日聖徒[BIO]であり、米国内務長官でもあったスチュワート・L・ユーダル[57]は、教会が黒人に対する立場を明確にするよう求めました。[58] これに対する返答で、モイルとブラウンは、神権の制限と異人種間結婚についての前世における起源に関する考えに言及しました。[59]

1962年6月

McCall's誌で、クレア・ブース・ルースは、末日聖徒の知事であり公民権擁護者でもあるジョージ・ロムニーの公民権に関する見解は「彼の教会の見解とは……異なっている」と書き、その教会は「黒人は劣った魂を持っている」と教えているように見えると述べました。[BIO][60]

1962年7月14日

使徒ジョセフ・フィールディング・スミスは、黒人に関する教会の見解についてのクレア・ブース・ルースの発言に異議を唱え、ジョージ・ロムニーに意見の違いがあるとされた彼女のコメントは「誤った前提」に基づいていると述べました。[61]

1963年1月11日

LaMar S. Williams[BIO]は、ナイジェリアで伝道部を始めるために聖任されます。[62] 彼はDavid O. McKayから、ふさわしい黒人男性の聖徒は会員のグループを指導し、聖餐を配ることができると告げられます。[63]

1963年3月5日

ナイジェリアの新聞が、アンブローズ・チュッカ[BIO]による長い記事を掲載し、その中で神権禁止について説明したうえで、末日聖徒は「この国に入国させてはならない」と結論づけました。[64]

1963年6月7日

ニューヨーク・タイムズは、ヒュー・B・ブラウン管長[BIO]が「私たちは、黒人を受け入れる可能性に向けた調査の最中にあります」と述べたと引用しましたが、ブラウン管長は後に、自分の発言の引用のされ方の正確さに異議を唱えました。[65]

1963年夏

ジョセフ・フィールディング・スミスは、神権の制限に関する「前世」の理屈は「聖典にははっきりとは述べられていない」とユージン・イングランド[BIO]に語り、イングランドはそれを「信じる必要はない」と述べたと伝えられています。[66]

1963年10月

Look誌は、ユタ大学の学生ジェフ・ナイ[BIO]による、ジョセフ・フィールディング・スミスと神権制限を批判する記事を掲載しました。[67] これに対して、NAACPは、教会が声明を出さなければテンプル・スクエアで抗議活動を行うと警告しました。[68]

1963年10月6日

総大会で、ヒュー・B・ブラウンは、「神のすべての子どもたちのための完全な市民的平等の確立」を求める公の声明を読み上げました。[69]

1963年12月13日

ユタ州のローガン・タバナクルで話したエズラ・タフト・ベンソン[BIO]は、公民権運動は共産主義のための「見せかけ」の表向きの活動だと主張します。[70]

1964年2月14日

歴史的な前例がさまざまである問題に対応して、[71]デビッド・O・マッケイ大管長は、黒人の死者のためのバプテスマは「問題なくそうできるのであれば、黒人以外の人によって執り行うべきである」という方針を承認しました。[72]

1964年

ジョセフ・ウィリアム・ビリー・ジョンソン[BIO]は、教会の承認なしに、ガーナで最初の末日聖徒の支部を組織しました。[73]

1965年3月

BYUがナイジェリア人学生およそ6人に奨学金を支給した後、使徒ハロルド・B・リーは、その奨学金制度が「BYUに社会的な問題を生み出した」として反対の意見を述べます。[74]

1965年6月15日

デビッド・O・マッカイ大管長は、「神権を授けることができないにもかかわらず」、教会がナイジェリアに拠点を築くべきだと決定しました。[75]

1965年11月4日

ラマー・ウィリアムズがナイジェリアで教会を設立するための伝道部について、第一大管長会と十二使徒定員会が祈りながら話し合った結果[76]、「時期が適切ではなかった」として、彼を帰国させることが決定されます。[77] その数か月後、ナイジェリア政府に対するクーデターが一連の紛争を引き起こし、ナイジェリア内戦へとつながりました。[78]

1966年8月

デイビッド・L・ブリューワー[BIO]が、「ユタ州のエリート層とユタ州の人種規範」と題する博士論文を発表し、公民権や神権と神殿の制限について、州内にさまざまな見解があったことを強調しました。[79]

1966年10月25日

BYUの学生に向けた講話で、エズラ・タフト・ベンソンは、公民権そのものには「何も問題はないが、公民権の名の下に行われていることには衝撃を受ける」と述べ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが共産主義に関与していたとされることに言及しました。[80]

1967〜1970

ナイジェリアの教会の先駆者アンソニー・U・オビナ[BIO]が教会に改宗し、許可を受けないまま末日聖徒の会衆を組織し始めます。[81]

1967年5月

公開書簡の中で、末日聖徒であり米国内務長官でもあったスチュワート・L・ユーダルは、「現在、黒人の交わりに課されている制限」の撤廃を公に求めました。[82] スペンサー・W・キンボールとデルバート・L・ステイプリー[BIO]は、ユーダルの姿勢に対する失望を表す手紙を彼に送りました。[83][84]

1967年9月29日

総大会で、エズラ・タフト・ベンソンは公民権運動を「共産主義者の欺きの道具」だと非難しましたが、「その責任を黒人に負わせてはなりません」とも述べました。[85]

1968年4月5日

Deseret Newsは、第一大管長会の顧問ヒュー・B・ブラウンが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの暗殺を受けて「深い悲しみと衝撃」を表明したと報じています。[BIO][86]

デビッド・O・マッケイ時代(1968〜1969年)、抗議運動がBYUを標的にし、教会が公民権に関する声明を発表

1968年4月13日

テキサス大学エルパソ校の黒人アスリートたちは、BYUとの試合のボイコットを呼びかけた複数の教育機関[87]の最初の例となりました。[88]

1968年11月

サンノゼ州立大学の黒人学生たちは、BYUのフットボールの試合をボイコットしました。[89] BYUの学生たちは、Daily Universe[90]でこの問題について議論しました。[91]

1968年〜1969年

マッケイ大管長は、この時期に神権制限を変更できる可能性について何度か祈ったと伝えられていますが、そのたびに答えは「まだその時ではない」でした。[92]

1969年3月27日

1年にわたる調査の後、保健教育福祉省公民権局は、BYUが1964年公民権法に「準拠している」と結論づけました。[93]

1969年5月

Daily Universeによると、BYUの学生たちは、人種問題への理解を深め、支援を必要とする地域社会のために奉仕を行う「ブラザーフッド・ウィーク」の行事を計画しましたが、その後の大学と教会の指示によって「その週の核心はほとんど失われました」。[94]

1969年秋

神権の制限の起源を検討し、禁止の撤回を求めたスティーブン・G・タガートの1970年の著書[BIO]『Mormonism's Negro Policy』の見本刷りが、この時期に第一大管長会の複数の顧問の間で複数の議論を促しました。[95] [96]

1969年10月17日

Eugene Register-Guardは、ワイオミング大学ララミー校のフットボール選手14人が、BYUと教会における人種差別的とされる方針に抗議するために黒い腕章を着ける計画を明らかにした後、チームから外されたと報じています。 この出来事は[97]Sports Illustratedでも報じられています。[98]

1969年10月23日

ワイオミング大学の14人の選手が関わった事件を受けて、The Salt Lake Tribune は、BYUの学生役員たちが公民権に関する声明を書いてBYUの運営側に提出したと報じています。[99]

1969年11月3日

ウェスタン・アスレチック・カンファレンス(WAC)からの抗議と、BYUに対するますます声高になる抗議を受けて、[100]アーネスト・L・ウィルキンソン[BIO]は、BYUは「肌の色を理由に、いかなる人のBYUへの入学も決して制限していない」と述べた文書[101]を提出しました。[102]

1969年11月5日

BYUの特別理事会で、[103]アーネスト・L・ウィルキンソンは、BYUが批判者たちから「人種差別的で、キリスト教的ではない」と呼ばれていると説明し、[104]黒人学生に関する新しい方針を提案しました。[105]その翌月、黒人学生を募集するための新しい方針が採用されました。[106]

1969年11月13日

スタンフォード大学は、教会の神権制限を理由に、今後BYUとの運動競技の予定を組まないと発表します。[107]

1969年11月30日

BYU学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、西部アスレチック・カンファレンス(WAC)の大学学長たちとの会合で、神権の禁止に強く反対する「非常に強い思い」を抱いたと日記に記しています。[108]

1969年12月15日

かなりの議論の末、[109]第一大管長会は教会指導者たちに宛てた書簡を出し、[110]黒人に「完全な憲法上の権利」を支持すると表明するとともに、[111]その制限は「人の前世の状態にまでさかのぼる」計画の一部であるとも述べました。[112]

1969年12月25日

ソルトレーク・トリビューンは、第一大管長会の顧問ヒュー・B・ブラウンが、神権の制限は「それほど遠くない将来に変わるだろう」と述べたと報じています。[113]

ジョセフ・フィールディング・スミス、ハロルド・B・リー時代(1970〜1973年)、BYUでの抗議活動が終結、ジェネシス・グループが発足

1970

スティーブン・G・タガートの著書『モルモニズムの黒人政策』が出版されます。この本は、神権と神殿の制限はジョセフ・スミスに始まり、南部の地域的な状況がきっかけだったと論じています。[114]

1970年1月〜4月

ワシントン大学の黒人学生連合は、BYUとの関係断絶を求める一連の抗議活動を開始しますが、ワシントン州司法長官がBYUに有利な見解を出した後、その抗議は沈静化しました。[115][116] ワイオミング州とユタ州でも同様の見解が示され、BYUに対する訴訟は棄却されました。[117]

1970年4月ごろ

BYUはワシントン州とオレゴン州のさまざまな新聞に、「いかなる人種、信条、肌の色、または国籍の人でも」受け入れるとする全面広告を掲載しました。[118] BYUはまた、教会は「人種差別主義ではない」こと、そして神権制限はいずれ解除されることを説明する4ページの案内冊子を作成し、配布しました。[119]

1970年10月8日

Tucson Daily Citizenの社説は、BYUを調査したアリゾナ大学の委員会が「BYUは他のどの大学よりも人種差別的というわけではない」と結論づけ、WACに対して今後のデモを中止するよう勧告したと報じています。[120]

1970年11月25日

第一大管長会への手紙の中で、[121]カレブ・A・シュリーブ・シニア[BIO]は、イライジャ・エイブル[BIO]とジョセフ・スミス[BIO]の間で、エイブルの神権が取り消されたとする会話を回想しています。[122]

1970年12月

ブラジルでは、宣教師たちが系統に関するレッスンを使って、神権の制限について改宗を考えている人たちに教え、その人たちにアフリカ系の祖先がいる可能性があるかどうかを判断していました。[123]

1971年5月23日

ウィルキンソン会長は日記の中で、西部運動連盟(WAC)の大学学長たちとの会合を記録しており、その場で、神権の制限を理由にアリゾナ州立大学はBYUを試合日程から除外できないと決定されたと述べています。[124]

1971年5月28日

エドワード・キンボールによれば、黒人の聖徒が家長の祝福を受けるための一般的な方針が1971年に承認されました。[125]

1971年10月19日

ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、黒人の聖徒たちを支援するための教会の公式組織であるジェネシス・グループの設立を承認します。[126]

1972年7月

ハロルド・B・リーが教会の大管長となり、Newsweek、Los Angeles Timesやその他の出版物の記者たちは、神権制限が解除されるのではないかと推測しました。[127]

1973年春

Lester Bush[BIO]は、Dialogue: A Journal of Mormon Thoughtに「Mormonism's Negro Policy」を発表し、この制限はJoseph SmithではなくBrigham Youngに始まると論じました。[128]

1973年後半

教会会長ハロルド・B・リーは、「ニグロが教会で完全な地位を得るのは時間の問題にすぎない」と述べています。[129] 彼はこの制限について断食して祈り、「まだその時ではない」という答えを受けたと報じられています。[130]

スペンサー・W・キンボール時代(1973年―1978年6月9日)、ボーイスカウト論争、ブラジル・サンパウロ神殿、制限の解除

1973年〜1978年

エドワード・L・キンボール[BIO]は、この時期に神権禁止の解除を予期する霊的な予感や個人的な祝福を受けたさまざまな会員がいたと報告しています。[131]

1973年12月30日

スペンサー・W・キンボールが教会の大管長に聖任されます。[132] 伝えられているところによると、彼は尋ねられた際、制限を解除する時はまだ来ておらず、「その日が来るなら、それは啓示の問題になる」と述べました。[133]

1974年7月24日

Miami NewsとNew York Timesは、黒人のスカウトに対して差別的だった教会の方針、つまり執事定員会の会長をシニア・パトロール・リーダーに指定する方針を理由に、NAACPがボーイスカウトを提訴する意向だと報じました。[134]

1974年11月

教会は、ボーイスカウトで執事定員会会長がシニア・パトロール・リーダーを務める方針を変更し、NAACPの訴訟は棄却されます。[135]

1975年

ジェームズ・R・クラークの第一大管長会のメッセージ第6巻が出版されました。この時点までに神権の制限に関して出された3つの第一大管長会声明は、どれもこの編集版には含まれていませんでした。[136]

1975年3月1日

ブラジルのサンパウロ神殿が発表されます。[137] 教会指導者たちは、現在の方針のもとでは、ブラジルにいるアフリカ系の多くの聖徒が神殿に参入できないという問題を認識します。[138]

1976年4月3日

ダグラス・A・ウォレスによる黒人の教会員への無許可の神権聖任[BIO]が全国的に報じられます。[139] この出来事はジェネシス・グループに分裂をもたらします。[140]

1977年6月

ブルース・R・マッコンキーは、キンボール大管長が使徒たちに、神権と神殿の制限という موضوعについて覚書を自分に提出するよう求めたと報告しています[141]

1978年1月

教会歴史家のレナード・アリントンは、ニール・A・マックスウェルからジョセフ・フィールディング・スミスの黒人に関する引用を見つけてほしいという内密の依頼を受けます[BIO]。アリントンは、これはマックスウェルがその制限に関する覚書を作成していたことを示すものだと考えています。[142]

1978年3月

エドワード・キンボールによると、教会大管長スペンサー・W・キンボールはこの制限について祈るために神殿に行き、3月23日に顧問たちに、自分の受けた印象は「黒人に対する制限を解除することだった」と伝えました。[143]

1978年4月20日

キンボール大管長は、「神が答えを与えてくださるように、十二使徒に大管長会とともに祈るよう求め、その後、十二使徒一人ひとりと話し合った」と伝えられています。[144]

1978年5月4日

神権の制限についての話し合いの中で、LeGrand RichardsはSalt Lake TempleでWilford Woodruff大管長を見たと伝えられています。[145]

1978年6月1日

キンボール大管長は、第一大管長会と10人の使徒を祈りに導き、彼らは神権の制限を解除するための啓示による確認があったと述べています。[146][147]

1978年6月9日

利用可能なすべての中央幹部との会合の中で、神殿と神権の制限解除の発表が、公表のために報道機関に伝えられました。[148]

1978年9月16日

サンデースクールの総会長ラッセル・M・ネルソンは、ハロルド・B・リーが「もし預言者として生き続けていたなら、スペンサー・W・キンボールと同じ神権に関する啓示を受けていただろう」と語る夢を見ます。[149]

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神権と神殿の制限とは何でしたか。

教会の初期から1978年6月まで、アフリカ系の血統を持つ末日聖徒は、神権を持つことと神殿の聖典に参加することを明確に禁じられていました。[150]

この制限は、時期によってやや異なる形で解釈されており、例外が設けられたこともあれば、[151]厳格さの度合いが異なったこともあり、[152]少なくとも一つの民族集団がこの制限から明確に除外されたこともありました。[153]

現代の20世紀の教会は人種差別的だったのでしょうか。

はい。20世紀の大半において、教会指導部の多くは人種差別的な考えを述べ、人種差別的な慣行に従っていました。特にアフリカ系の人々に対してそうでした。[154]

当時、教会はアメリカ社会よりも人種差別的だったのでしょうか。

おそらくそうではありません。1966年に、社会学者アーマンド・L・モースは末日聖徒の「反黒人」的な態度について調査を行い、いくつかの違いはあったものの、「モルモンと他の人々の間、または正統派のモルモンと非正統派のモルモンの間で、世俗的な人種態度に体系的な違いは見つからなかった」[155]と結論づけました。

ダニエルズ一家のメンバーと宣教師たちが一緒に写っている白黒写真で、末日聖徒イエス・キリスト教会における黒人聖徒の歴史をとらえています。
ウィリアム・ポール・ダニエルズ(中央)は、神権の職に聖任されていなかったにもかかわらず、1929年から1935年まで南アフリカのケープタウン、モーブレーにある「ブランチ・オブ・ラブ」の支部会長として忠実に奉仕しました。ここには、支部の扶助協会会長として奉仕した妻のクララ(右、白い服を着用)と、扶助協会書記として奉仕した娘のアリス(左手前)も写っています。写真にはこのほか、ケープタウン伝道部の宣教師たちも含まれています。(『聖徒たち』第3巻、教会歴史ライブラリーの展示より)

教会は会衆を人種隔離したことがありましたか?

いいえ、分離政策は一度もありませんでしたが、Ohioのある黒人家族が地元の指導者から教会に出席しないよう求められた事例が少なくとも1件ありました。[156]

黒人の教会員であったアブナー・ハウエルも、エルダー・スティーブン・L・リチャーズが、黒人の聖徒たちが「私たちと交わりたくないのであれば、ここでスペイン語を話す人たちのためにしてきたように、彼ら専用の教会を建てる」と言っていたことを覚えていました。これは、一部の地域にあったスペイン語話者の会衆に言及したものです。[157]

教会は教会外の場で人種隔離を公式に支持していましたか?

いいえ。1969年、この話題についての教会の唯一の公式声明では、次のように述べられています。「公民権に関して、すべての市民は法の下で平等な機会と保護を受けなければなりません。……私たちには人種によって分離された会衆はありません。」[158]

しかし、教会の個々の指導者や会員が、ときには人種隔離を支持する発言をすることもありました。[159][160] また、他の多くの州と同じように、[161]ユタ州では住宅[162]や公共の場[163]における人種隔離が、1960年代半ばまで続いていました。[164]

1953年まで、教会はLDS病院で黒人の献血者の血液を分離していたというのは本当ですか?

はい。1950年代初めまで、アメリカ赤十字社やほかの病院では、黒人の人々からの血液を分けて扱うことが標準的な慣行でした。[165] それは、当時の一般的な医学的見解が、そのような違いはないと退けていたにもかかわらずです。[166]

LDS病院もこの慣行に従っていましたが、それはおそらく、黒人の提供者からの輸血によって受血者が神権の職に就く資格を失うのではないかという懸念があったためです。[167]

黒人に福音を教えないという方針はありましたか?

黒人に福音を教えないという教会全体の公式な方針はありませんでしたが、指導者たちはしばしば、黒人集団を特に対象とする宣教活動を思いとどまらせ、ときには禁止しました。[168][169][170]

教会は、「前世」であまり勇敢ではなかった霊が、地上で黒人の身体に割り当てられたと教えていましたか?

はい。この考えは、教会の手引きに載せられたり総大会で教えられたりした正式な教義では一度もありませんでしたが、教会指導者たちは個人的かつ非公式に、その説明としてこれを示しました。

たとえば、1947年には、第一大管長会の私的な書簡の中の発言で、神権禁止の説明として、人々の前世における違いに言及していました。[171] そして1958年には、ブルース・R・マッコンキーの著書モルモンの教義に、"前世であまり勇敢ではなく、その結果として現世の間に一定の霊的な制限が課された者たちは、私たちには黒人として知られている。"と書かれていました。[172]

しかし、1961年にマッケイ大管長は日記の中で、神権の禁止の「唯一の理由」はモルモン書ではなくアブラハム書にあると記録しました。[173] しかし、前世の存在による説明は一部の使徒の間で続いており[174]、1969年の第一大管長会の声明の中にも一般的な形で現れました。[175]

神権禁止のために、ほかの大学がBYUのスポーツチームとの対戦を拒否したことはありましたか?

はい。1968年4月、テキサス大学エルパソ校の黒人アスリートたちは、BYUとの試合のボイコットを呼びかけた最初の複数の学校の一つでした。[176] これに対してBYUは、1969年11月のウェスタン・アスレチック・カンファレンスの会議で、BYUには人種差別の方針はないと述べる声明を発表しました。[177]

1968〜69年のBYUに対する抗議の結果、何か変化はありましたか。

はい。BYUの指導部は少数派と公民権に関する立場を見直して公表し、[178]アリゾナ大学はBYUにおける人種差別についての調査結果を公表し、[179]公民権局はBYUが1964年公民権法を順守しているかどうかについての審査声明を出しました。[180]

教会は公民権法に関連して何か声明を出したことがありましたか?

はい。1969年12月15日、第一大管長会の第一顧問ヒュー・B・ブラウン[BIO]と第二顧問N・エルドン・タナー[BIO]は、すべての市民に完全な公民権を認めることを支持する声明に署名しました。[181]

マッケイ大管長は、なぜ公民権に関する声明に署名しなかったのですか。

その時、マッケイ大管長は健康状態が悪く、教会指導者たちは「すべての書簡」については第一大管長会を代表して署名することを免除すると決めていたため、その声明には2人の顧問が署名しました。[182]

教会は1969年に、神権制限はまもなく解除されると述べましたか。

1969年12月25日付のThe Salt Lake Tribuneは、第一大管長会第一顧問だったヒュー・B・ブラウンが、神権の制限は「そう遠くない将来に変わるだろう」と述べたと報じました。[183] ブラウンは、1月にマッケイ大管長が亡くなる前、この件についてそれ以上は何も述べませんでした。[184]

ジェネシス・グループとは何で、どのように始まったのでしょうか。

ジェネシス・グループは、教会の黒人会員を支援するための公式組織であり、長年にわたって少なくとも毎月集会を行ってきました。[185][186]

ジェネシス・グループは、1971年10月19日に、黒人の末日聖徒であるラフィン・ブリッジフォース[BIO]、ダリウス・グレイ[BIO]、およびユージン・オアの要請により組織されました。[BIO][187]

白黒写真には、教会のアフリカ系アメリカ人会員のための組織である末日聖徒ジェネシス・グループの会長会で最初の顧問を務めたダリウス・グレイが、1971年の最初の集会で話している様子が写っており、彼の後ろの壁にはイエス・キリストの絵があります。
ジェネシス・グループの初代会長会の一員だったダリウス・グレイが、1971年の最初の集会で話しています。

神権と神殿の制限は方針だったのでしょうか。それとも教義に基づいていたのでしょうか。

教会指導者たちは一貫して、この制限は「教義」に基づくと教えていましたが、[188]1954年3月、デビッド・O・マッカイは、この制限は「教義の問題ではない。単なる慣行にすぎない」と述べたと報じられています。[189]しかし、彼はまた、この方針には「聖文上の先例」があり、変更には啓示が必要だとも述べたと報じられています。[190]

さらに、1973年にスペンサー・W・キンボールは、「わたしたちは天の御父の指示の下にあり、これは私の方針でも教会の方針でもありません」と述べました。[191]

神権と神殿の制限に関する第一大管長会の20世紀の文書

日付

文書

コメント

1947年7月17日

ローリー・ネルソンへの私的な手紙[BIO]

第一大管長会は、前世に関する出来事や教義に照らして、その制限を擁護し説明しています。[192]

1949

私的な書簡

第一大管長会は、1947年のときと同様に前世について似た表現を用いながら、Brigham YoungとWilford Woodruffの発言を付け加えています。[193]

1951年8月17日

私的な書簡

1949年のこの書簡の拡大版には、前世についての「いくつかの知られている事実」が付け加えられています。[194]

1963年10月6日

公式の公の声明

その声明は神権禁止には言及していませんが、「神のすべての子供たちに対する完全な市民的平等の確立」を求めています。[195]

1969年12月15日

公式の公の声明

その声明は、すべての人のための「公民権と憲法上の特権」を支持し、前世に言及していますが、神権の制限の理由は「人には完全には分かっていない」と述べています。[196][197][198]

1978年6月8日

公式宣言2

この声明は、その決定が「啓示」によって確認されたと述べる以外には説明をせずに、その制限を解除しています。[199]

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神権の禁止を解除することについて祈り、そうしないよう神から告げられたと報告されている教会の大管長はいますか?

はい、そのような報告はありますが、プレジデント・キンボール以外については本人による一次報告は残っていません。[200](下の表を参照してください。)

教会大管長たちが神権制限について啓示を求めたという報告

日付

会長

記録

1954

デビッド・O・マッケイ

教会歴史家レナード・J・アリントン[BIO]は、エルダー・アダム・S・ベニオン[BIO]が、マッケイ大管長はそれまでの数か月にわたってこの禁止について十二使徒定員会と研究し、話し合う中で、「主に嘆願した」が、その時は「まだ熟していない」と告げられたと報告するのを聞きました。[201]

1960年代

デビッド・O・マッケイ

歴史家グレゴリー・プリンス[BIO]は、マッケイ大管長の息子の妻が「新しい啓示の時だと思います」と言ったと伝えています。マッケイ大管長は「私もそう思います」と答えました。[202]

1960年代

デビッド・O・マッケイ

歴史家グレゴリー・プリンスによると、マッケイ大管長の事務所の秘書は、彼が「主に何度か尋ねた」が、「まだその時ではない」と告げられたと彼が言うのを聞いたそうです。[203]

1960年代後半

デビッド・O・マッケイ

マッケイ大管長は、マリオン・D・ハンクス・エルダーに「私は何度も何度も何度も祈りましたが、答えはありませんでした」と言ったと伝えられています。[204]

1968年〜1969年

デビッド・O・マッケイ

教会の建築家だったリチャード・ジャクソンは、デビッド・O・マッケイが、その禁止について最近祈った後、ついに主から「その件には関わらないでおきなさい」と告げられたと語っていたことを回想しています。[BIO][205]

1972年〜1973年

ハロルド・B・リー

教会歴史家レナード・J・アリントンは、リー大管長が「神殿の上の部屋で三日三晩断食した……しかし、彼が受けた唯一の答えは『まだその時ではない』だった」と聞かされました。[206]

1961〜1976

スペンサー・W・キンボール

スペンサー・W・キンボール大管長は、このことについて「答えを得られないまま15年間祈ってきた」と述べました。[207]

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キンボール大管長は、教会の大管長になったとき、その制限が解除されることを示すようなことを何か述べていましたか。

教会の会長になって間もなく、彼はこのことについて「非常に多くの思いと祈り」をささげてきたと述べました。つまり、「[黒人男性に]神権が与えられる日が来るかもしれないが、その日はまだ来ていない。その日が来るなら、それは啓示の問題になるでしょう」ということです。[208]

なぜその啓示はもっと早く受けられなかったのでしょうか。

はっきりしていません。キンボール大管長は、この問題がそれ以前の教会大管長たちの前にも繰り返し持ち出されていたことを認めましたが、[209] 遅れた理由については、それが主の望まれる時に「それまではなく」来なければならなかったということ以外は述べませんでした。[210]

その禁止は社会的圧力のために変わったのでしょうか。

はい、それはおそらく一因でした。[211][212] たとえば、1969年と1970年には、いくつかの学校が神権の制限を理由にBYUのスポーツをボイコットしました。[213] また、1970年には、IRSが人種に関する方針に基づいて私立学校の免税資格を取り消すと発表しました。[214]

しかし、BYUの名誉法学教授エドワード・キンボールによると[BIO]、1978年までには「外部からの圧力は何年も前から見て最も低い水準だった」とされています。[215]

アフリカ系の血統を持つ多くの会員が住むブラジルに教会が神殿を建てたために、この禁止は変わったのでしょうか。

はい、それはおそらく一因でした。[216] ブラジルは「人種民主主義の国」として知られており、[217] 奴隷にされたアフリカ人の子孫が何百万人も暮らしていました。彼らはヨーロッパ人の植民者との間に子どもをもうけており、そのため、J・ルーベン・クラークによれば、ブラジルで系譜上の血統を判断するのは「非常に難しく、不可能ではないにしてもほぼ不可能」でした。[218]

教会指導者たちは、アフリカ系ブラジル人がサンパウロ神殿への寄付に貢献してきたことに気づいていましたが、方針ではアフリカ系の祖先を持つブラジル人の入場を禁じていました。[219]

教会は、なぜその禁止が行われたのかについて公式な説明をしていますか?

ある程度はそうです。なぜ禁止があったのかを説明する教会全体としての公式声明はこれまで一度も出されていませんが、個々の教会指導者は、教会の公式レターヘッドを使った書簡で質問に答え、この禁止についての説明を示してきました。[220]

禁止が解除される前にこの禁止について出された唯一の公式な公開声明は1969年のものでしたが、「人間の前世の状態にまでさかのぼる」と述べる以外の説明はありませんでした。[221]

2013年に、教会はこの制限についての「過去に唱えられた理論」を否定する記事を発表しましたが、やはり公式な説明は示しませんでした。[222]

これは教会が知っているべきことではないですか。

おそらくそうです。

ほとんどの末日聖徒イエス・キリスト教会の会員は、神権の制限についてどう考えているのでしょうか。

この話題について入手できるデータは非常に少ないですが、2016年の調査では、教会員の5人に4人がその禁止は神による霊感を受けたものだと信じていたことが示されました。[223]

神権の制限に関する立場を簡略化した表

神権の制限に関する説

神の関与に関する説

含意

教会指導者たちは、人種差別的な慣習のためにその制限を実施しましたが、それを正当化する本物の啓示や教義はありませんでした。[224]

神は1978年にこれを正しました。

  • その制限は神からのものではありませんでした。

  • 神は御自身の教会がこの誤った方針を1世紀以上にわたって維持することを許しました。

  • 神は預言者たちが不当な慣行を維持し、誤った原則を人々に教えることを許されます。

神は1978年まで、これを罰として続けさせました。[225]

神は、この制限の実施にも撤廃にも関わっていませんでした。

その制限は、何らかの賢明な目的のための一時的な慣行として、神によって霊感を受けたものでした。[226][227]

神は、その制限の実施[228]と解除を霊感によって導かれました。[229][230]

  • その制限は神からのものでした。[231]

  • 神は御自分の民に、つらく苦しい試練を与えられます。[232]

  • 神は、ご自身の理由によって、時代や人々ごとに異なる計画を持っておられます。[233]

1978年の啓示がどのように受け止められたかについて、私たちは何を知っているのでしょうか。

祈りの間、その場にいた一人ひとりが個人的な霊的確認を受けたように思われます(下の表を参照)。エルダー・マッコンキーは、これらの確認が重要だったのは、「主は、そのことが起こったと証できる独立した証人を望まれた」からだと述べました。[234]

1978年の啓示についての第一大管長会と使徒たちのコメント

Source

コメント

スペンサー・W・キンボール[BIO]

「私はそこで圧倒されるような御霊を感じました。それは、それまで私たちが一度も経験したことのないほどの一致が、奔流のように押し寄せてくるものでした。」[235]

キンボール大管長は、1980年に次のような記述を書いたとも報告されています。「神の御霊の力によって与えられる神の声、『あらゆるものを通してささやき、あらゆるものを刺し通す静かな細い声』(教義と聖約85:6)によって、聖なる神権、神殿のすべての祝福、永遠の婚姻を含み、それに伴うすべての義務が、今や個人のふさわしさだけを基準として、あらゆる人種と肌の色のすべての男性に提供されるべきであることが明らかにされました。その神聖な場で、昔のいくつかのペンテコステの日々に似たその時、そこにいた使徒としての証人たちはそれぞれ、主の無数の地上の子どもたちの救いと高揚に関する主の思いと御心を知るようになりました。」[236][237]

マリオン・G・ロムニー[BIO]

「私はこの決定を支持しているだけではありません。積極的に擁護しています。」[238]

N・エルドン・タナー[BIO]

その啓示をめぐる出来事はタナーの伝記では説明されていませんが、その次の総大会で、彼はキンボール大管長から、支持の投票のために公式宣言2を提出するよう指名されました。[239]

エズラ・タフト・ベンソン[BIO]

「祈りの後、私たちは、私がこれまでに経験したことのないほどの、最も甘美な一致と確信の御霊を感じました。」[240]

マーク・E・ピーターセン[BIO]

神権に関する啓示を確認する祈りが行われたとき南米に任命されていたピーターセンは、こう述べました。「主から新しい啓示がもたらされたことを知って、私はとてもうれしく思いました。」[241]

デルバート・L・ステープリー[BIO]

神権に関する啓示を確認する祈りの時に入院していたスタプレーは、「この件では兄弟たちと行動を共にします」と述べて、その決定を支持しました。[242]

リグランド・リチャーズ[BIO]

Richardsは以前、神権の制限についての話し合いの際に部屋の中でWilford Woodruffを見たと報告していましたが、[243]祈りの輪の中で、「主が、主に喜ばれ、また主の子供たちの祝福となることを行うために必要な霊感を私たちに与えてくださるように」と祈ったと述べました。[244]

ハワード・W・ハンター[BIO]

「御霊の力強い証……これによって、その啓示が神からのものであることが確認されました。」[245]

ゴードン・B・ヒンクレー[BIO]

「それはすばらしく、とても個人的なものであり、この変化が神からの啓示であるという大きな一致と強い確信をもたらしました。」[246]

トーマス・S・モンソン[BIO]

「[キンボール大管長]がその高い召しにおいて導きを求め、へりくだって嘆願するのを聞くことは、兄弟たちにとって大きな慰めの源でした。」[247]

「私たちは皆、その時が来たことを知っており、そう感じていました。」[248]

ボイド・K・パッカー[BIO]

「祈りの間に、その場にいた全員が、どのような決定をしなければならないかを悟りました。」[249]

マーヴィン・J・アシュトン[BIO]

「これまでに感じた中で、最も強い霊的な印象でした。」[250]

ブルース・R・マッコンキー[BIO]

「この祈りの最中に啓示が与えられました。主の御霊がわたしたち皆の上に力強くとどまりました。」[251]

L・トム・ペリー[BIO]

「彼が祈っている間、私たちはすばらしい経験をしました。私たちの気持ちは完全に一つになりました。いちばん近い言い方をするなら、Kirtland神殿の奉献のときに起きたと語られていることによく似ていました。私は、風が激しく吹き抜けるようなものを感じました。」[252]

「私たちだけではありませんでした。」[253]

デビッド・B・ヘイト[BIO]

「御霊は、同じメッセージを同じ方法で、私たち一人ひとりの心に触れました。各人が、天を超えた出来事の証人となりました。」[254]

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1978年にこの制限が解除されることに反対した人はいましたか?

キンボール大管長は、彼を「詐欺師」あるいは「自分の人種への裏切り者」と呼ぶ苦情の手紙を約30通受け取ったと報じられており、その「ほとんどすべてが非モルモンから」のものでした。[255] ソルトレーク・トリビューンは、アポストリック・ユナイテッド・ブレザレンを代表するジョセフ・ラモイン・ジェンソンの声明を掲載し、 その声明は、神権の制限を解除したことで教会を非難するものでした。[BIO][256][257]

教会の会員は、制限が解除されたことに一般的にどのように反応しましたか?

報告によれば、世界中の会員はほとんど例外なく肯定的でした。[258]「私は喜びのあまり叫びました」と、Salt Lake City に住む黒人で、1956年から末日聖徒イエス・キリスト教会の会員だったモンロー・フレミングは語りました。[BIO][259]

発表の後、黒人の聖徒たちが神権を受け始めたのはいつですか?

1978年6月8日の啓示の発表のほぼ直後に、聖任が始まりました。[260] ジョセフ・フリーマン・ジュニア[BIO]は、現代においてメルキゼデク神権を受けた最初の黒人男性になったと報告されています。[261] また、ジェネシス・グループ会長ラフィン・ブリッジフォース[BIO]は、大祭司に聖任された最初の人物だった可能性があります。[262]

The Facts

  • 1947年から1951年にかけて、第一大管長会は神権制限についての説明を含む私的な書簡をいくつか書き、その中で前世に関する理由を挙げました。

  • 神権の制限が解除される前に、教会がこの神権の制限について公に出した唯一の公式声明は1969年のもので、その制限は現世以前からの計画の一部であると述べていました。

  • 教会は、神権の制限について公式な説明を一度も公表していません。

  • デビッド・O・マッケイとハロルド・B・リーは、その制限はまだ解除されるべきではないという啓示を受けたと報告されています。

  • 1978年、スペンサー・W・キンボールは、神権の制限を解除する啓示を受けました。

Our Take

20世紀における黒人聖徒たちの経験、教会指導者たちの決定、そして当時の教会文化は、特に21世紀の視点から見ると、強い戸惑いを感じさせることがあります。なぜ神の教会は、神権の制限によって神の子どもたちの多くを脇に追いやったのでしょうか。この差別はどこから始まり、なぜ続いたのでしょうか。そして1978年に何が起こり、「その禁止」が解除されることになったのでしょうか。

20世紀のかなりの期間にわたって、教会指導者たちは黒人に対して偏見を含む考え方を広めました。こうした見方の一部は、当時のアメリカ社会全体に広がっていた考えを反映していたのかもしれませんが、それによって、アフリカ系の人々に対する人種的な偏見に基づく見解や行動について、教会指導者たちの責任が免れるわけではありません。

歴史記録や教会の公式声明からは、その禁止が正確にいつ、どのように設けられたのか、またそれが神の啓示として導入されたのかについては、限られたことしか分かりません。しかし、その禁止が啓示によって解除されたと述べる現代の預言者や使徒の証は数多くあります。

今日の教会が人種差別をはっきりと非難していると知ることは、現在の会員にとって心強いことです。それでも、こうした過去の問題について、より深い理解と癒やしがもたらされることを願う気持ちは、今も多くの人に共有されています。その一方で、私たちにはこの歴史を知り、福音の教えを日々実践しながら、神の子供たち一人一人を愛し、尊重するよう努め続ける責任があります。

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Footnotes
  • BIOB. H. Roberts

    Brigham Henry Roberts (1857-1933) was born in Warrington, Lancashire, England, to Benjamin Roberts and Ann Everington. Roberts emigrated from England in 1866 and crossed the plains to Salt Lake City. He was baptized in 1867 and settled in Bountiful. Roberts served a mission to Iowa and Nebraska, then was transferred to Tennessee in 1880. He served as president of the Eastern States Mission from 1922 to 1927 and as one of the seven Presidents of the Seventy from 1888 until his death. Roberts was an early and prolific writer on Mormonism, best known for A Comprehensive History of the Church and Studies of the Book of Mormon.

  • BIOGeorge Q. Cannon

    George Q. Cannon (1827–1901) was born in Liverpool, England, to George Cannon and Ann Quayle. His family was baptized into the Church in 1840. In 1842, he and his family immigrated to Nauvoo and later moved west with the Saints in 1847. In 1849, he served as a mining missionary to California. During this time, he was asked to travel to the Kingdom of Hawaii, where he served for four years. During this time, with the assistance of Jonatana Napela, Cannon translated the Book of Mormon into Hawaiian. After the Utah War, he served as the president of the Eastern States Mission. He was ordained as an apostle in August 1860 and served as a counselor in the First Presidency (under four presidents) from 1873-1887 and 1889-1901.

  • BIOJoseph Smith, Jr.

    Joseph Smith (1805–1844) organized The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Born in Sharon, Vermont, he began to experience visions of deity and angels at a young age. One vision featured the Angel Moroni, who revealed the location of gold plates with an account of ancient Americans. He translated this record and published it as The Book of Mormon. He continued to receive revelations throughout his life which serve as the foundation for the Church's doctrine today. He led the Latter-day Saints across the country from New York to Illinois. In 1844, he was martyred while awaiting trial in Carthage, Illinois.

  • BIOJoseph F. Smith

    Joseph F. Smith (1838–1918) was born in Far West, Missouri to Hyrum and Mary Fielding Smith. At age 15, he was called to serve his first mission to the Sandwich Islands under the direction of apostle Parley P. Pratt. During the 1858-59 session of the Utah territorial legislature, he served as the sergeant-at-arms. He served another mission for the Church in Great Britain from 1860 to 1863.

    Smith was ordained an apostle by Brigham Young in July 1866. He served as a counselor in the First Presidency under John Taylor, Wilford Woodruff, and Lorenzo Snow. He became the president of the Church in 1901. Smith issued the Second Manifesto, declaring that any church officer who performed a plural marriage would be excommunicated, alongside the couple themselves. He also received what is now canonized as section 138 of the Doctrine and Covenants, a vision of the spirit world in 1918.

  • BIOBrigham Young

    Brigham Young (1801–1877) was an early Latter-day Saint leader. He was born in Whitingham, Vermont, and joined the faith in his twenties after two years of deliberation. He became the President of the Quorum of the Twelve Apostles following the fractionalization of the Church in Kirtland, Ohio. After Joseph Smith's martyrdom in 1844, Young assumed the presidency and led the Latter-day Saints to settle in the Great Basin region. He was married to fifty-five women and fathered fifty-nine children from sixteen of his wives. He also served as the Territorial Governor for Utah Territory until 1857 and as the prophet until his death.

  • BIODavid O. McKay

    David Oman McKay (1873 – 1970) was born in Huntsville, Utah. He was the ninth president of the Church from 1951 to 1970. At the age of 32, he was ordained an apostle. President McKay expanded the mission of the Church worldwide, including creating the first stakes outside of the United States. He also emphasized family life and education. He died at age 96.

  • BIOElijah Able

    Elijah Able (sometimes spelled Abel or Ables)(1810-1884) was born in Frederick County, Maryland. He is known for being the first documented Black man to be ordained to the priesthood. He was described as being an "octoroon" implying that he was 1/8th of African decent. He joined the Church in 1832. In early 1836, he was ordained to the priesthood by Ambrose Palmer. Able served a mission to Canada and advocated for his endowment in 1879, but his request was denied.

  • BIOWilliam Benjamin Smith

    William Benjamin Smith (October 26, 1850 – August 6, 1934) was an academic and professor at Tulane University. Smith was a proponent of white supremacy and author of the book The Color Line: A Brief on Behalf of the Unborn (1905) that argued for the racial inferiority of black people. Smith was also an advocate and proponent of the Jesus Myth Theory, authoring several books on the topic.

  • BIOSamuel Davidson Chambers

    Samuel Davidson Chambers (1831–1929) was a Black Saint, born in Alabama, to Hester Gillespie, an enslaved woman, and James Davidson, her enslaver. Later, he was sold to Maxfield Chambers. He was baptized in 1844 at age 13. In 1858, he married Amanda Leggroan and emigrated to Utah as a free man in 1870. Though not ordained to the priesthood, Chambers served as an assistant deacon and made generous financial contributions to the Church. The Chambers performed proxy baptisms in the Salt Lake Endowment House and were sealed posthumously.

  • BIOAmanda Leggroan Chambers

    Amanda Leggroan Chambers (1840–1925) was a Black Saint born in Mississippi, to Green and Hattie Leggroan. The Leggroans were enslaved to David Lagronne. Amanda married Samuel Chambers in 1858 and was baptized in 1875. She served as a Relief Society "deaconess" in her ward and was recognized for the cakes and pies she often prepared for Church social functions. She and Samuel were well-regarded in the community and the Church. In 1875, she performed proxy baptisms in the Salt Lake Endowment House, and was posthumously sealed.

  • BIOBooker T. Washington

    Booker Taliaferro Washington (1856-1915) was born into slavery in Hales Ford, Virginia. He became a leading African American intellectual of the 19th century, founding Tuskegee Normal and Industrial Institute (Now Tuskegee University) in 1881 and the National Negro Business League two decades later. Washington advised Presidents Theodore Roosevelt and William Howard Taft. His infamous conflicts with Black leaders like W. E. B. Du Bois over segregation were controversial, but he is widely considered an influential speaker and thinker on African American issues.

  • BIOWilliam P. Daniels

    William P. Daniels (?-1936) was a tailor in Mowbray, South Africa who joined The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Born in Mowbray, Daniels struggled to be welcomed within Latter-day Saint communities due to his black African ancestry. The mission president, Nicholas Groesbeck Smith, allowed Daniels to meet with in his family in his home in place of church attendance. The next mission president, Donald M. Dalton, set him apart as a "branch president" over his own house branch. Daniels was a strong proponent of the Book of Mormon and served as a defender of the faith in the Mowbray press.

  • BIOHeber J. Grant

    Heber J. Grant (1856-1945) served as the seventh president of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. He was born in Salt Lake City, Utah, to Jedediah Grant (a counselor in the First Presidency) and Rachel Ivins Grant (a long-term Relief Society President in Salt Lake City). Grant worked as a clerk for Zion's bank and started an insurance company and a Utah Sugar Company. He became an apostle in 1882 and established the Church's first mission in Japan. He became Church president in 1918 and served for 27 years.

  • BIOJoseph Fielding Smith

    Joseph Fielding Smith (1876-1972) was the tenth president of The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. He became an apostle in the Quorum of the Twelve in 1910 and served in this capacity until he became a member of the First Presidency in 1965. He was the Church Historian and Recorder from 1921 until 1970. He became president of the Church following the death of David O. McKay in 1970.

  • BIOJ. Reuben Clark

    Joshua Reuben Clark Jr. (September 1, 1871 – October 6, 1961) was an American attorney and an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Clark was born and raised in Grantsville, Utah, and received his education around the Utah Valley. Despite financial difficulties, Clark was intelligent and excelled in his schoolwork, graduating as valedictorian form his University of Utah class in 1898.Later, Clark attended Columbia University Law School, graduating in 1906. Clark worked as an attorney in the Department of State, and as Undersecretary of State for the U.S. President Calvin Coolidge. Clark also served as the United States Ambassador to Mexico in 1930. Following his ambassadorship, Clark was ordained an apostle in 1934.

  • BIOLen Hope

    Len Hope (10 October 1895 - September 1952) was born and raised in Alabama, an earnest seeker of religion. Hope served on the front lines during World War One, and was baptized into the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints soon after his return in June, 1919. Hope and his wife, Mary Lee Pugh were participants in the Great Migration, moving from Alabama to Cincinnati, Ohio in 1920. The Hopes moved to Utah in 1951 and Len Hope passed away in 1952.

  • BIOMary Hope

    Mary Lee Pugh Hope (Oct 11, 1902 – Aug 23, 1973) was born in Lamison, Alabama. She was baptized in the Baptist church at age 11, and married an active Black member of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, Len Hope, in 1920. Her conversion to the Church took place over the course of several years, and she was baptized on Sept 15, 1925. Despite experiencing racial prejudice, the Hope family remained faithful in the Church in both Ohio and the Salt Lake Valley.

  • BIOLowry Nelson

    Lowry Nelson (16 April 1893–21 November 1986) He attended college from Utah State University in 1916, and later earned a Ph.D. at the University of Wisconsin in 1929. During his lifetime he became a world known sociologist. Nelson taught at the University of Michigan in the Sociology Department and developed an international reputation as a rural sociologist from 1937 to 1958. Nelson published a number of articles, pamphlets, and books on the Church, especially on the Church’s racial policies, some of which were received negatively by the Church.

  • BIOGeorge Albert Smith

    George Albert Smith (1870-1951) was the eighth president of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Born in Salt Lake City, he worked for Zion's Cooperative Mercantile Institution and later served a mission in the Southern States. In 1903, he became an apostle for the Church, and by 1945, had become the president of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints.

  • BIOHerbert A. Ford

    Herbert Augustus Ford, a light-skinned Black man, petitioned Patriarch James Wallis, for his patriarchal blessing in 1932. Ford was originally denied the priesthood because of his suspected mixed race heritage, as he had been born in Saint Croix in the Virgin Islands. Wallis did give Ford his patriarchal blessing which said he was from “of the blood of Abraham, through Ephraim and Manasseh.” Because of the confusion on where this left Ford in terms of priesthood ordination, Ford wrote to the First Presidency, to which they responded. Ford’s granddaughter, Patricia Ford, spent many years researching the Ford genealogy in an effort to receive her own patriarchal blessing and in 1976, successfully received permission to receive her blessing, and for her grandfather to be eligible for the priesthood.

  • BIOEvan Wright

    Evan P. Wright (February 24, 1911 - August 27, 1998) served as mission president over South Africa from 1948-1953. Wright was a restaurateur and following his service as a missionary, brought ice-cream and drive-in diners to South Africa. Wright was nicknamed "Mr. Africa" by President David O. McKay, and wrote three books about Africa, compiling five more before his death. Wright was a native of Utah and U of U graduate, though at the time of his death he resided in Marietta, Georgia.

  • BIOSterling M. McMurrin

    Sterling Moss McMurrin (January 12, 1914 – April 6, 1996) was born in Woods Cross, Utah. He was a liberal Mormon theologian and writer. He spent his first career years as an instructor, and then director, in the Institute of Religion of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. He eventaully taught philosophy at the University of Utah and served as United States Commissioner of Education in the administration of President John F. Kennedy. He remained devoted to the Church despite his unorthodox views and criticism from some church members and leaders.

  • BIOAdam S. Bennion

    Adam Samuel Bennion (December 2, 1886 – February 11, 1958) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Bennion was a Utah-born educator who taught at various high schools across Utah, and eventually at the University of Utah as a professor of English. Bennion held degrees from the University of Utah, Columbia University, and the University of California, Berkeley. Bennion made important contributions to the development of the Sunday school and seminary programs during his career, and served as superintendent over LDS Colleges from 1921 - 1923. Bennion was ordained an apostle for the Church in 1953 and served until his death in 1958.

  • BIOThomas F. O'Dea

    Thomas F. O'Dea (Dec 1, 1915 — November 12, 1974) was born in Amsbury, Massachusetts. He was a Harvard-educated Sociologist earning an M.A. and Ph.D. in Sociology, in 1951 and 1953 respectively. He researched and published on the sociology of religion. He wrote at one point about the Mormon Church and sources of conflict within the faith.

  • BIOLeonard J. Arrington

    Leonard James Arrington (July 2, 1917 – February 11, 1999), dubbed “the dean of Mormon history”, was an American author, academic and the founder of the Mormon History Association in 1965. He served as the Church Historian for The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints from 1972 to 1982, and was director of the Joseph Fielding Smith Institute for Church History from 1982 until 1986. He wrote and published many books and articles, including Great Basin Kingdom: An Economic History of the Latter-day Saints, 1830-1900 (Harvard University Press).

  • BIOHarold B. Lee

    Harold Bingham Lee (March 28, 1899 – December 26, 1973) in Clifton, Idaho. He developed careers in education, business, and government, and was called to the Quorum of the twelve Apostles of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints on April 10, 1941. He became President of the Church on July 7, 1972 and served for only 18 months until his death.

  • BIOJohn J. Stewart

    John J. Stewart (November 10, 1925 — August 5, 2014) was born and raised in Brigham City, Utah. Stewart attended Utah State University, and taught English and Journalism for 30 years at Utah State University, following a short break away from northern Utah to receive a masters from the University of Oregon. Stewart served two terms as mayor of River Heights.

  • BIOJohn L. Sorenson

    John Leon Sorenson (April 8, 1924–December 8, 2021) was an American Latter-day Saint anthropologist and scholar. He was a professor of anthropology at Brigham Young University and is best known for his book An Ancient American Setting for the Book of Mormon that argued for a limited geographical setting for the Book of Mormon in Central America. He also published Mormon's Codex: An Ancient American Book in 2013 arguing for an ancient Mesoamerican setting for the text. He was the editor of the Journal of Book of Mormon Studies and published much of his research on the Book of Mormon though the Foundation for Ancient Research and Mormon Studies.

  • BIOAlbert Fritz

    Albert B. Fritz (February 28, 1905 - June 14, 1989) was the former president of the Salt Lake chapter of the NAACP. Fritz was born in Michigan and was a member of the Trinity A.M.E. Church. In addition to his service with the NAACP, Fritz also served on the executive boards of the Legal Aid Society, and the Nettie Gregory Center, and a member of the Consumer Credit Board and the Salt Lake County Bar Legal Services.

  • BIOHenry D. Moyle

    Henry D. Moyle (1889–1963) served as a member of the Quorum of the Twelve Apostles and First Presidency. Moyle was born in Salt Lake City and studied law at the University of Chicago and Harvard University. He became an apostle in 1947. Shortly after his appointment, Moyle established the Church's first cattle ranch in Florida. Moyle expanded the Church's building program.

  • BIOHugh B. Brown

    Hugh B. Brown (1883-1975) was born in Granger, Utah. He was a member of the Quorum of the Twelve Apostles and First Counselor in the First Presidency. He served a mission to England. Brown became an officer in the Canadian military and was sent to England to fight in WWI. He was president of the British Mission when WWII started and was then asked serve as coordinator for all Latter-day Saint servicemen stationed in Europe during the war. He was a lawyer in Alberta, Canada until he became an apostle in 1958 and contiued to serve in the First Presidency from 1961 until 1970. He served as an apostle until his death in 1975

  • BIOStewart Udall

    Stewart Lee Udall (January 31, 1920 – March 20, 2010) was an American politician and former congressman. Udall, an Arizona native, served in the U.S Air Force during World War Two, and graduated from the University of Arizona with a degree in law. Udall was elected to the U.S. House of Representatives in 1954 and served for three terms on the Interior and Education and Labor committees. Udall served as the Secretary of the Interior from 1961 to 1969. Udall passed away in March of 2010.

  • BIOClare Boothe Luce

    Clare Boothe Luce (March 10, 1903 – October 9, 1987) was a conservative American writer, politician, ambassador, and public figure. Luce spent her childhood around the U.S. and eventually married Henry Luce, publisher of Time, Life, and Fortune magazines. Luce published short stories, articles in her husband’s magazines, and several successful plays. Luce served in the Republican House of Representatives from 1942 to 1945. Luce campaigned on behalf of several republican candidates and future presidents and was rewarded for her help by President Eisenhower with an appointment to Ambassador of Italy in 1953. Luce died in 1987 of brain cancer.

  • BIOLaMar Williams

    LaMar Stevenson Williams (December 4, 1911 - January 28, 1996) was a church employee in the missionary department for over 27 years. Williams was born and raised in Idaho and attended BYU, receiving both a bachelors and masters degree from the institution. Williams was called as the first Presiding Elder over West Africa in 1961, several years before the priesthood ban was lifted and missionary work actually began in West Africa. Williams and his wife, Nyal, founded the Mormon Youth Choir and Mormon Youth Symphony, and served as the heads of five different missions.

  • BIOAmbrose Chukwu

    Ambrose Chukwu was a Cal-Poly educated journalist. After an interaction with the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints on campus, and having read Mormonism and the Negro, he wrote an article for a Nigerian newspaper (Enugu, Nigeria: Nigerian Outlook, March 5, 1963) which argued that the Church has racist doctrines and ought to stay out of Nigeria until they have repaired relationships with Black people in America and removed their racist teachings.

  • BIOEugene England

    George Eugene England, Jr. (22 July 1933 – 17 August 2001) was an LDS scholar, writer, teacher, and founder of Dialogue: A Journal of Mormon Thought. England was born and raised in Logan, Utah, and served a mission with his wife in Samoa. England received a PhD in 1974 from Stanford University, and taught at St. Olaf’s College, and the University of Utah Institute before taking a professorship at Brigham Young University. England remained at BYU publishing actively until 1998, he then took a position at the Utah Valley University and passed away from brain cancer in 2001.

  • BIOIra Jeffrey Nye

    Ira Jeffrey Nye (March 15, 1943 – Dec 20, 2010) was born in Ogden Utah. Nye was a member of the Church and attended the University of Utah. Nye to advocate for social justice during the Civil Rights Movement of the 1960's. He marched with Dr. Martin Luther King Jr., documented the lives of migrant workers, and wrote articles about race relations for newspapers, including the Deseret News.

  • BIOEzra Taft Benson

    Ezra Taft Benson (1899–1994) was born in Whitney, Idaho. He served as the Secretary of Agriculture under President Dwight D. Eisenhower from 1953 to 1961. He was ordained an Apostle and member of the Quorum of the Twelve in 1943. Benson later served as President of the Quorum of the Twelve from 1973 to 1985, when he was called as President of the Church.

  • BIOJoseph William Billy Johnson

    Joseph William Billy Johnson (17 December 1934 – 27 March 2012) was born in Lagos, Nigeria and subsequently moved to Ghana, where he learned of the Book of Mormon from a friend (Frank Mensah). He and Mensah worked for many years to organize congregations and spread the doctrines of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. He sent many letters to Church headquarters asking for missionaries, literature, and official recognition from the Church, including the Priesthood and all that is necessary to legitimize the congregations already meeting. He was baptized six months after the 1978 Revelation on Priesthood and served in many positions thereafter.

  • BIODavid Leslie Brewer

    David L. Brewer was a PhD candidate for the University of Utah. He completed his dissertation entitled “Utah Elites and Utah Racial Norms” in 1966. Brewer later taught at California State College, Hayward in the sociology department.

  • BIOAnthony Obinna

    Anthony Uzodimma Obinna (April 15, 1928 – August 25, 1995) was the first member of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints in Nigeria. After converting to Christianity as a child, Obinna had a vision in 1965 of Jesus Chirst and a building with beautiful rooms. In 1971, while reading Reader’s Digest, Obinna discovered the building from his vision was the Salt Lake City Temple. Obinna contacted the Church asking for resources, and helped facilitate an unofficial congregation in Nigeria before missionaries could be sent following the repeal of priesthood restrictions in 1978. Obinna and his wife served as the first black Branch President in Africa, and Relief Society President in Africa, respectively.

  • BIODelbert L. Stapley

    Delbert Leon Stapley (December 11, 1896 – August 19, 1978) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints from 1950 until his death in 1978. Stapley was born in Arizona, and served a mission for the church in the Southern United States, before serving as a Marine during World War One. He was ordained an apostle in 1950 and served as a general authority until his death in 1978.

  • BIOMartin Luther King, Jr.

    Martin Luther King, Jr. (1929 -1968) was a Baptist minister and civil rights activist. He attended Morehouse College, Crozer Theological College and Boston University. He championed the civil rights movement in the 1950s and 1960s. King received the Nobel Peace Prize in 1964 and was assassinated in 1968.

  • BIOStephen G. Taggart

    Stephen Glen Taggart (June 1, 1941- August 1, 1969) was the son of Glen Laird Taggart, former president of Utah State University. Stephen was born and raised in Logan, Utah and passed away at the age of 28 while attending graduate school at Cornell University in 1969. Taggart’s work, “Mormonism's Negro Policy: Social and Historical Origins,” was published posthumously.

  • BIOErnest L. Wilkinson

    Ernest L. Wilkinson (1899-1978) served as the president of Brigham Young University from 1951 to 1971. He implemented the university's dress standards, established the first law school, and promoted a campus environment defined by mid-twentieth-century conservative values.

  • BIOCaleb A. Shreeve, Sr.

    Col. Caleb Anthon Shreeve Sr. (11 October 1901–11 October 1993) was born and raised in Ogden, Utah. Shreeve married Leone Blanch Wright on 21 January 1926. Shreeve served in World War Two, he died on 11 October 1993, at the age of 92.

  • BIOLester E. Bush

    Lester E. Bush (22 November 1942 - present) is a physician, with undergraduate and medical degrees from the University of Virginia, a master's in public health from Johns Hopkins University, and a long-standing interest in Mormon history. Bush resides in Gaithersburg, Maryland, and has written a number of articles and won several prizes for his work on Mormon history which has been published in Dialogue: A Journal of Mormon Thought, and the Journal of Mormon History.

  • BIOEdward L. Kimball

    Edward Lawrence Kimball (September 23, 1930–November 21, 2016) was born in Arizona as a son of Spencer Woolley Kimball, later President of the Church, and Camilla Eyring Kimball. He was a professor of law at University of Montana and University of Wisconsin until he because a member of the founding faculty of the BYU Law School. In Church circles, he is best known for the frank and faithful biographical accounts he wrote about his father. His detailed accounts of the events surrounding the 1978 priesthood revelation are based on unparalleled access to his father's personal papers.

  • BIODouglas A. Wallace

    Douglas A. Wallace (May 8, 1929 - May 13, 2022) was an attorney in Vancouver, Washington, and HIgh Priest in the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. In 1976, two years before the restriction on priesthood ordination was lifted, Wallace ordained a black man, Larry Lester, to the priesthood. Wallace was subsequently excommunicated and served a court order barring him from attending General Conference after several protests and threats disrupting previous conferences.

  • BIONeal A. Maxwell

    Neal A. Maxwell (1926-2004) grew up in Salt Lake City. He received a Master's degree in political science from the University of Utah and became involved in Utah politics. In 1970, he became Commissioner of Church Education and then, in 1974, became a general authority when called as an Assistant to the Quorum of the Twelve Apostles. He died in 2004.

  • BION. Eldon Tanner

    Nathan Eldon Tanner (May 9, 1898 – November 27, 1982) was born in Salt Lake City, Utah. His family eventually emigrated to Canada, where he served as a politician for many years. In 1960, Tanner was called as an Assistant to the Quorum of the Twelve Apostles; an in 1962, was called as an Apostle. Tanner served as a counselor to four different Church Presidents.

  • BIORuffin Bridgeforth

    Ruffin Bridgeforth (March 18, 1923 - March 21, 1997) was the president of the Genesis Group, an auxiliary body within the church for black members. Bridgeforth was born in Louisiana in 1923 and immigrated to Utah in 1944. Bridgeforth joined the church in 1953. In 1971, Bridgeforth, along with Darius Grey and Eugene Orr, petitioned President Joseph Fielding Smith to begin a dialogue with black saints (The Genesis Group).

  • BIODarius Gray

    Darius Grey (December 12, 1945 - present) is a black Latter-day Saint speaker, writer, and journalist. Grey was born in Colorado, and joined the church in 1964. Grey was one of the first counselors of the Genesis Group when it was formed in 1971, and served as president of the group from 1997-2003. Grey co-authored a trilogy of historical novels with Margret Blair Young, and has produced or been featured in a number of documentaries about the church or black saints.

  • BIOEugene Orr

    Eugene Orr (March 16, 1946 - present) was a founding member, and one of the first counselors called to the Genesis Group after its formation in 1971. Orr was born in Georgia and came to Utah with the Job Corps in 1968, joining the church later that same year. Orr currently resides in Alberta, Canada, where he works as a naturopathic health counselor.

  • BIOGregory A. Prince

    Gregory Antone Prince (1948 - present) is a businessman, historian, and pathology researcher. Prince was born in Los Angeles, graduated as valedictorian from Dixie College. After a mission in Brazil, he earned D.D.S. and Ph.D. degrees from UCLA in 1973 and 1975 respectively. He co-founded Virion Systems, pioneering RSV disease prevention, and later led Soft Cell Biological Research, studying L-form bacteria. He established Madison House Autism Foundation for autistic adults. Prince has also published a number of articles in Mormon studies, and was featured in the PBS documentary “The Mormons.”

  • BIORichard W. Jackson

    Richard Jackson (1915-2010) received a Ph.D. in architecture from the University of California, Berkeley in 1943. Much of his career involved designing buildings for The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. He served as Church architect under the David O. McKay administration, designed meeting houses across Utah and Europe, and, after retiring, wrote the book Places of Worship: 150 Years of Latter-day Saint Architecture. He was involved with designing the Idaho Falls Temple and the George Albert Smith Fieldhouse at BYU.

  • BIOSpencer W. Kimball

    Spencer W. Kimball (1895-1985) was born in Salt Lake City, Utah. He was the twelfth president of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Reared in Thatcher, Arizona, Kimball founded and ran a securities business as a young man and became involved in several Thatcher-area community organizations. He became an apostle in 1943, where he became a leading advocate for ministry to and work with indigenous Americans. As Church president, he became an advocate for the global expansion of the Church. In 1978, President Kimball received the revelation to lift the priesthood/temple restriction on peoples with African ancestry.

  • BIOMarion G. Romney

    Marion George Romney (September 19, 1897 – May 20, 1988) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Romney was born in Colonia Juárez, Chihuahua, Mexico but was raised throughout the U.S. following the outbreak of the Mexican Revolution in 1912. Romney served a mission in Australia from 1920 -1923, and then attended the University of Utah, passing the Utah bar exam in 1929. Romney served a single term as a Democrat in the House of Representatives in 1935. Romney was called into full time church service in 1941, and was ordained as an apostle in 1951 and served until his death in 1988.

  • BIOMark E. Petersen

    Mark E. Petersen (1900-1984) served as an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Born in Salt Lake City, Petersen served a mission to Nova Scotia and attended the University of Utah, where he studied journalism. He worked as a reporter for the Deseret News and soon became the Deseret News general manager. In 1944, he was appointed to the apostleship. He became the author of multiple short books on scriptural figures such as Moses and Joshua and moral issues such as alcohol consumption and sexual relationships. Petersen also was an ardent opponent of the Civil Rights Movement, warning that it would lead to racial intermarriage. Petersen died from cancer in 1984.

  • BIOLeGrand Richards

    LeGrand Richards (February 6, 1886–April 6, 1983) was a Latter-day Saint leader and author. He served a mission in the Netherlands in 1905 and returned in 1914 as a mission president. He served as a mission president again in the southern U.S. in 1934. He was called to serve as the presiding bishop of the Church in 1938 until his call as an apostle in 1952. He is well known for his book A Marvelous Work and a Wonder.

  • BIOHoward W. Hunter

    Howard W. Hunter (1907–1995) was the 14th president of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints, serving from 1994 to 1995. He served as an apostle from 1959 to 1994, during which he negotiated the establishment of the Jerusalem Center. As President, he oversaw the drafting of the Proclamation on the Family and promoted temple worthiness and access.

  • BIOGordon B. Hinckley

    Gordon B. Hinckley (1910-2008) was born in Salt Lake City, Utah. He served as the fifteenth president of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Hinckley graduated from the University of Utah in English literature. After serving a mission to Great Britain, he became a secretary under the Church's Radio, Publicity, and Missionary Literature division. He became an apostle in 1961 and then a member of the First Presidency in 1981. In 1995, he became Church president. He oversaw the expansion of temple construction, increased standards for missionary worthiness, the expansion of the Church into West Africa and East Asia (particularly South Korea).

  • BIOThomas S. Monson

    Thomas Spencer Monson (August 21, 1927 – January 2, 2018) was the 16th President of the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Monson was born and raised in Salt Lake City, Utah and attended the University of Utah where he received a degree in business management. Monson served in the U.S. Navy during World War Two, and married his wife, Frances, following his service and schooling in 1948. Monson worked professionally in the publishing industry, and held many prominent positions in the church, including bishop, stake presidency member, and mission president over the Canadian Mission (1959-1962). Monson was called as an apostle in 1963, and received his MBA from BYU in 1974 while serving as an apostle. Monson was called as President of the Church in 2008, and served until his death in 2018.

  • BIOBoyd K. Packer

    Boyd K. Packer (1924–2015) was born in Brigham City, Utah. He enlisted in the army during World War II and trained as a bomber pilot in the Pacific. He attended Weber College and Utah State University. He earned an EdD from BYU. He worked in the Church Education System until he was called to serve in the Quorum of the Twelves Apostles in 1970. He served as an Apostle until his death in 2015. He served as acting president of that quorum from 1994–2008 and as president from 2008 until his death.

  • BIOMarvin J. Ashton

    Marvin Jeremy Ashton (May 6, 1915 – February 25, 1994) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints and former Utah Senator. Ashton was born and raised in Salt Lake City, Utah and attended the University of Utah. Ashton served as a missionary for the Church in Great Britain from 1937 to 1939. Ashton worked as the managing director of LDS social services, and was president of Deseret Book, and served in the Utah Senate as a republican from 1957 to 1961. Ashton was appointed to the Quorum of the Twelve Apostles in 1971 and served until his death in 1994.

  • BIOBruce R. McConkie

    Bruce Redd McConkie (1915-1985) was born in Ann Arbor, Michigan. His family moved back to Utah when he was an infant. McConkie served as a missionary in the Eastern States Mission and was involved in the first Hill Cumorah Pageant. McConkie married Amelia Smith, the daughter of Joseph Fielding Smith, in 1937. He graduated with a degree in law from the University of Utah in 1939. McConkie served as an officer in Army Intelligence during WWII. He was called as a Seventy in 1946. McConkie edited and published many sermons and teachings of Joseph Fielding Smith. He published the controversial compendium Mormon Doctrine in 1958. He then served as president of the Southern Australian Mission in 1961. McConkie was called as an apostle and served on the Quorum of the Twelve from 1972 until his death in 1985.

  • BIOL. Tom Perry

    Lowell Tom Perry (August 5, 1922 – May 30, 2015) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints from 1974 until his death in 2015. Perry was born and raised in Logan, Utah and served a mission for the church in the Northern States Mission from 1942-1944. Perry served in the United States Marine Corps during the Second World War and was stationed in Saipan and later Nagasaki. Perry worked in business, until he was called into full time church service in 1972, and was ordained an apostle in 1974. Perry passed away from thyroid cancer in 2015.

  • BIODavid B. Haight

    David Bruce Haight (September 2, 1906 – July 31, 2004) was an apostle for the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Haight was born and raised in Idaho, and attended Utah State University. Haight served as a commander in the Navy during World War II, and worked as a retail executive following his return to civilian life. Haight was mayor of Palo Alto, California from 1959 - 1963. Haight resigned as mayor when he was called to be president of the Scotland Mission. Haight was ordained as an apostle in 1976 and served until his death in 2004.

  • BIOJoseph LaMoine Jenson

    Joseph LaMoine Jenson (1935-2014) succeeded Owen A. Allred as leader of the Apostolic United Brethren (A.U.B.), a polygamist fundamentalist group, in 2005. On July 23, 1978, under the pseudonym of "Joseph Jensen," he signed his name to a full page advertisement in the Salt Lake Tribune, protesting the Church's release of Official Declaration #2.

  • BIOMonroe Fleming

    Monroe Hamilton Fleming Jr. (August 25, 1896 - July 31, 1982) was a Black saint and early recipient of priesthood and temple blessings after temple restrictions were lifted in 1978. Fleming was born and raised in Mississippi, the son of a Methodist preacher. Early in his life, Fleming began investigating the Church and eventually moved to Salt Lake City Utah for work in 1928. Fleming worked at the Hotel Utah for over 30 years as a waiter, busboy, and coat checker. Fleming joined the church in 1956 after a chance meeting with J. Reuben Clark in the Hotel Utah.

  • BIOJoseph Freeman

    Joseph Freeman Jr. (July 24, 1952 - present) was the first man of African descent to be ordained to the Melchizedek priesthood in the Church of Jesus Christ of Latter-day Saints. Freeman was born and raised in Craven County, North Carolina, where his family had resided for several generations. Freeman joined the church in 1973 while living in Hawaii. He was ordained to the Melchizedek Priesthood 3 days after priesthood restrictions were lifted on June 10, 1978.

  • 黒人の人々が教会の礼拝に歓迎されるかどうかを尋ねられたとき、ホレイシオという仮名を使っていた南部諸州の宣教師は、次のように記しています。「肯定の答えはいつも与えられ、ときには多くの有色人種が礼拝に出席することになります。たいていの場合、彼らの行儀も非常によいのです。」

  • 南部諸州の宣教師で、偽名で執筆していたホレイシオは、その通告の一つの例を挙げています。それはKKKの署名があり、ジョージア州で教会の大会が開かれる場所の近くの木に貼られていました。そこには一部こう書かれていました。

    警告 ヘイウッド・バレーから出て行くように、ここに正式に警告します。その谷の人々は、長い間お前たち悪魔どもに悩まされてきました。そこで私たちは、田舎のその地域からお前たちモルモンの悪魔どもを締め出すことで、彼らの苦しみに終わりをもたらすつもりです。
  • エルダーB. H. Robertsは、ソルトレーク・タバナクルで行った講話の中で次のように述べました。

    なぜ神権はある人種には与えられ、別の人種には与えられないのでしょうか。……ああ、何と祝福されていることか、と、生まれながらに……特権と祝福を……受け継ぐ者たちについて、だれかが叫ぶことでしょう。……いいえ、どうかそのようには考えないでください。……あなたが神の寵愛を受けた子らを指し示そうとするときには、……人がなぜここに来たのかという目的を考慮に入れなければなりません。その目的は経験を得ることです。ですから、最も祝福されているのは、最も幅広い経験を与える状況の中で生きる人たちです。……私は、イエス・キリストの生涯と、……主が預言者に語られた言葉は、……試練や苦難から最も遠い者たちが最も祝福されているのではなく、最も深い苦難を通るよう召される者たちこそが最も祝福されていることを示していると考えます。人の子はそれらをすべて通ってこられたからです。
  • 1895年8月22日、使徒であるエルダー George Q. Cannon は、この教えの出典として預言者ジョセフ・スミスを挙げました。

    カインの子孫は、アベルの子孫が現れてカインの子孫より先になるまでは、神権を受けることも、神権のいかなる職にも務めることもできない、ということです。

    その後の別の機会にも、エルダー・キャノンは、若いころにNauvooで、おじのJohn Taylor(後に教会会長)がこの教えを自分に直接伝え、その起源をJoseph Smithにあるとしていたと述べました。

  • 1902年1月2日の会議議事録によると、ジョセフ・F・スミス大管長は、「カインの血がどのような場合であっても、たとえごくわずかでも現れているところでは、そこで線を引くべきだというのが自分の意見であった。しかし、問題のある親の子どもが純粋なエフライム人であると認められる場合には、神殿に入ることが許されるかもしれない」と述べたと記されています。

    自分の見解を裏づけるために、スミス大管長はBrigham Youngの言葉を引用し、「たとえ血管の中に一滴でも黒人の血がある人の子どもが完全に白人であっても、その子孫の一人がはっきりとした黒人になることがあり得る」と述べたとしました。

    この記憶と一致して、Wilford Woodruffは1852年1月16日にBrigham Youngが次のように述べたと記録しています。

    カインの子孫の血が一滴でも入っている者は、だれであっても神権を持つことはできない
  • 当時監督だったデビッド・O・マッケイからの質問に対して、第一大管長会は次のように書きました。

    黒人種は聖なる神権を受けておらず、また受けることもできません。彼らは、自分たちの偉大な先祖であるカインに下されたのろいのために除外されており、そののろいを彼ら自身も受け継いでいるからです。そして預言者ジョセフは当時、カインの子孫は神権を受けることも、そのいかなる職にも携わることもできず、アベルの子孫が現れてカインの子孫より先位に立つまではそうである、という教義を教えました。 ブラザー・アベルがセブンティに聖任され、自分自身の人種に悔い改めの福音を宣べ伝えるために遣わされたのは事実です。しかし、彼には彼らに聖なる神権を授ける権限は与えられておらず、またブラザー・アベル自身も神殿の聖典を受けませんでした。ただし、覚えておくべきことですが、彼は純粋な黒人ではなく、単に8分の1だけ黒人の血を引いていただけでした。

    ジョセフ・F・スミスは以前、Elijah AbleがKirtlandの神殿で洗いと塗油を受けたと述べたと報告されていますが、Elijah AbleがNauvooの神殿でエンダウメントを受けた記録はありません。

  • ジョセフ・F・スミス大管長は、「心の中でも、ふるまいにおいても、礼儀や行いにおいても」、「自慢ばかりする多くの白人の兄弟たちよりはるかに優れている」黒人の人々を称賛しました。

  • エルダー・ロバーツは、神学講座(セブンティ向け)の中で「主の律法……をアメリカの黒人問題に当てはめた」特別授業において、完全な社会的平等は必然的に異人種間結婚の増加につながるというウォルター・ベンジャミン・スミスの見解を支持しました。

    ウォルター・ベンジャミン・スミスは、人種間結婚の結果、白人の生物学的優位性が損なわれることになると書いています。

    黒人が白人より著しく劣っていることは、頭蓋学的にも、また地球規模での六千年にわたる実験によっても証明されている。
  • その機関誌は北米のすべての伝道部に配布されており、神権から除外されていた理由を前世における忠実さの違いに求めていました。

    その匿名の著者は、自分はBrigham Youngが、黒人は「神権に常に伴う責任に耐えるのに十分な、生まれつきの霊的な強さと能力を持っていなかった」と言うのを聞いたことがある、と主張しました。

    ブリガムのものとされるその引用は、現在入手できるどの歴史記録にも見つかっていません。これは、ブリガムが「彼らは神権にあずかることができない。彼らは支配することができない」と述べたと記録されている発言に基づいている可能性があります。

  • 1908年8月26日の第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、ジョセフ・F・スミスは、「この血を引く人々に神権が授けられていた可能性がある場合、そのようなすべてのケースにおいて、彼らの聖任は無効と見なされなければならない」という見解を述べました。

  • 歴史家トニャ・S・ライターは、2人の黒人聖徒であるサミュエル・チェンバーズとアマンダ・チェンバーズが、ソルトレーク神殿で自分たちに代わって、16人の男性と13人の女性(一部は白人で、一部は黒人)のために代理として儀式を執行してもらうよう、ノルウェー人の神殿の働き人を手配した経緯を説明しています。

    ライターはまた、黒人の聖徒たちが依頼した死者のためのバプテスマで、代理として奉仕するよう手配された白人の代理人に関する情報を含む、死者のためのバプテスマの記録簿についても述べています。その記録簿は1924年から1942年まで保管されていたようですが、現在は研究に利用できません。

  • ユタ訪問の一環として、ブッカー・T・ワシントンはサミュエル・D・チェンバーズに会ったと報告し、次のように述べました。

    彼は筋金入りのモルモンで、バプテスト教会にもメソジスト教会にも引き入れられません。彼はミシシッピからここに来ました。見た目の立派な年配の男性で、いわば黒人のBrigham Youngのような人です。彼は2万5,000ドル相当の農場を持っていて、自分が指導者を務めるモルモンの黒人共同体のただ中に住んでいます。モルモン教会は黒人の人々をよく扱っていたと私は聞いています。
  • 1910年に南アフリカで教会を紹介された後、彼はバプテスマを受け入れる前に、教会本部を自分の目で見るためにユタへ行きました。

    ウィリアム・P・ダニエルズがユタを訪れた際、彼は教会会長ジョセフ・F・スミスと、胸が高鳴るような個人的な面会を二度しました。スミス会長はダニエルズ兄弟に祝福を与え、その中でダニエルズ兄弟の頭に手を置き、いつの日か彼が神権を持つようになると約束しました。それはダニエルズ兄弟の人生を動かす力となり、何百人もの末日聖徒の宣教師や地元の会員たちが、彼がそのような祝福を受け、そしていつの日か、おそらく来世で、神権を持てるようになるとダニエルズ兄弟が証したのを聞いてきました。頬を涙が流れ落ち、あごからしたたり落ちる中で、彼はその証を述べてきました。
  • ふさわしい黒人男性で、忠実なポリネシア人の女性と結婚している人を神権に聖任したいというDavid O. McKayの要請への返答の中で、McKayはHeber J. Grantが次のように言っていたと回想しました。

    デイビッド、私はあなたと同じようにそのことに同情的ですが、その件について主が私たちに啓示を与えられるまでは、教会の方針を維持しなければなりません。
  • 1924年、クー・クラックス・クランの全国機関誌『Imperial Night-Hawk』は、「モルモンによる強い反対」にもかかわらず、ユタ州で「会員数が大幅に増加した」と伝えました。

  • 当時使徒だったエルダー・ジョセフ・フィールディング・スミスは、その著書完全への道の中で、「今日、黒人が神権を受けることを禁じられているのは、[ジョセフ・スミスの]教えによるものであることを、私たちは皆知っている」と書きました。

  • ダニエルズを支部会長として聖任する意向を発表する際、伝道部会長ドナルド・M・ダルトンは次のように述べました。

    ダニエルズ兄弟には、特定の働きを行う特権が与えられるべきです。私は、彼の勤勉さによってその障壁が取り除かれ、彼がイスラエルにおける指導者になることを知っています。私はこの支部の名前について考えてきました。名前は「愛の支部」がよいのではないかと思います。

    ダニエルズの妻クララは扶助協会会長の召しを受け、娘のアリスは扶助協会書記および支部書記の召しを受けました。

    ダルトン会長が、ダニエルズ夫妻をこれらの役職に召すという自分の決定について、Salt Lake Cityの教会指導者たちに連絡したことを示す記録は、知られている限りありません。

  • クラーク大管長は、十二使徒定員会の小委員会が「この問題を非常に慎重に調査し、黒人の血が一滴でも入っていると、男性が神権を受ける権利を失うのかどうかという点について、これまでに下された決定に何らかの裁定を下すか、あるいはそれを再確認する」ことを提案しました。

    クラークは、この問題について過去に行われた評議会での議論に関する「古い記録」から、関連する発言をまとめた貴重な資料集を作成しました。

  • 「一滴」という言及は、1852年1月16日に行われたBrigham Youngの説教についてのWilford Woodruffの日記の記録に由来します。

    カインの子孫の血が一滴でも入っている者は、だれであれ神権を持つことはできない。たとえほかの預言者がだれも以前にそれを語っていなかったとしても、私は今それをイエス・キリストの御名によって言う。私はそれが真実だと知っている。

    クラークはこの方針の難しさを認識しており、1959年に「この黒人の血という問題はますます複雑になっており、私たちにとってますます難しくなっている」と書いています。

  • エルダー・チャールズ・A・キャリスは、アフリカ系の祖先を少し持つ黒人聖徒への聖任を支持していましたが、エルダー・ジョセフ・フィールディング・スミスとジョージ・F・リチャーズはそうではありませんでした。

    「一滴でも」という排除の前例を続けるという勧告が受け入れられました。具体的には、1947年の記録は、1940年4月23日の決定として「ごくわずかでも黒人の血を引く人は神権を受けることができない」と記しています。

  • 第一大管長会の要請を受けて教会の青少年のために用意された「高貴な生得権を持つ青少年たち」と題する話の中で、エルダー・ハロルド・B・リーは次のように尋ねました。

    私たちが今生きている状況は、前世の霊の世界でどのような生き方をしていたかによって決まったと考えるのが、理にかなっているのではないでしょうか。 . . . さて、神が公正な父であるのに、なぜその子供たちの中には . . . カインの子孫が呪われたしるしである黒い皮膚を持つ親のもとに生まれ、その子孫が神の神権の権利を拒まれることになったのか、という皆さんの疑問のいくつかについて、おそらく部分的な答えになるでしょう。

    また、黒人の末日聖徒は「神の子供たち」であるとも述べ、次のように付け加えました。

    彼らは神権がなくても教会員になることはできますが、現代のある預言者によって、いつの日か「私たちが今受けているすべての祝福を受けるようになる」という希望の約束が与えられています。 私たちは、この兄弟姉妹たちに親切と思いやりを示すべきです。…この人種の中には教会員となり、教会で受けられる特権に制限があるにもかかわらず、私たち皆が見習うべき信仰と献身の模範を示している人たちもいます。
  • ホープ夫妻は、Ohioのシンシナティに移る前にアラバマでバプテスマを受けました。引っ越した後、支部会長が彼らを訪ね、「彼らが黒人であるという理由だけで、教会に出席することに支部内で反対があった」と伝えました。

    エルダー・マーク・E・ピーターセンはホープ夫妻を高く評価し、ジョセフ・フィールディング・スミス大管長から許可を得て、彼らに代わって親族の亡くなった家族のためのバプテスマが行われるようにしました。そして、1947年10月9日に第一大管長会と十二使徒定員会で話し合いが行われた後、管理家長エルドレッド・G・スミスはホープ夫妻に家長の祝福を与えるよう指示されました。

    しかし、エルドレド・G・スミスの息子であるE・ゲーリー・スミスは、1978年以前に兄弟たちが家長の祝福を承認したという考えに疑問を投げかけました。

  • キューバでの宣教活動の可能性について問い合わせる中で、伝道部会長ヒーバー・ミークスは、キューバ人の人種構成について末日聖徒の社会学者ローリー・ネルソンに尋ねる手紙を書きました。ネルソンはキューバで2年間過ごしていたからです。

    ネルソンは返事をし、その手紙の写しをジョージ・アルバート・スミス大管長にも送りました。彼は、キューバ人は人種的に混血していると説明しました。

    その後ネルソンはスミス大管長に手紙を書き、神権禁止について懸念を示し、この件について「取り消すことのできない教会の教義は存在しない」と自分は信じていると述べました。

    第一大管長会は返信を書き、禁令の理由として前世での違いを挙げ、この方針はジョセフ・スミスに由来するとしました。

  • 1947年10月9日の第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、彼らは「アフリカのナイジェリアにいるO. J. Umondakからの、その地の人々のもとに宣教師を派遣してほしいという書簡」を検討しました。彼らは次の決定を下しました。

    アフリカのナイジェリアにいるO・J・ウモンダクからの……書簡への返答は、……黒人問題に関する資料が集められ、兄弟たちがそれに目を通して検討する機会を得るまで、延期することが決定されました。
  • クラーク管長は、「[南アメリカ、特にブラジルの]人々の間で宣教師の働きを進めるにあたり、だれに黒人の血が入っていて、だれに入っていないかを見分けるのが、非常に難しく、不可能でさえある状況に入りつつあります」と述べました。

    彼はさらに、「もし私たちがブラジル人にバプテスマを施しているなら、ほぼ確実に黒人の血を引く人々にもバプテスマを施していることになります」と付け加えました。

  • 1947年の第一大管長会の会合の議事録には、次のように記されています。

    [クラーク大管長の]心は黒人たちのために痛んでいます。……彼は、神権そのものを彼らに授けることはしないまでも、少なくともアロン神権の階級の働きに参加する機会を彼らに与える方法を見いだせないかと、私たちは考えていたのだと言いました。

    その後、クラークは、黒人男性を「準備執事グループ、準備教師グループ、準備祭司グループ」に組織することを提案しました。

  • 1947年11月3日付の元の手紙の一版が残っており、上部には手書きで「100部お願いします。BYUの学生への手紙」と書かれています。これは、その手紙がより広く配布するために複製される予定だったことを示しています。

    その説明の一部として、マッケイ大管長は次のように書きました。

    ニグロに神権を与えないことの根拠として、アブラハム書の一つの節以外は私は知りません。しかし、あなたが示唆しているように、本当の理由は私たちの前世にさかのぼると私は信じています。
  • 1948年4月12日、第一大管長会の顧問であるJ・ルーベン・クラークは、G・アルビン・マトソン博士に手紙を書き、血液銀行を人種別に分ける方針を支持しました。

    約1年後、クラークは日記に、白人への輸血に使われた「黒人の血」が「黒人の血の一滴」と見なされるかどうかを医師に尋ねたと書きました。これに対して、その血は「3週間以内に分解する」ので、その後は存在しなくなるという返答でした。

  • 1941年、アメリカ赤十字社は黒人の提供者からの血液を受け入れない方針を実施しました。アメリカ赤十字社は1950年まで、人種に基づいて血液を分けていました。

  • 1949年、第一大管長会は個人的な書簡のやり取りの中で、この禁止についての標準化された説明を使い始めました。Brigham YoungとWilford Woodruffの発言を含めていることに加えて、どちらの版にも次の段落が共通して含まれており、この禁止を「教会の教義」と位置づけています。

    黒人に関する教会の態度は、これまで常にそうであったまま変わっていません。これは方針を表明したものではなく、主からの直接の戒めであり、その上に教会の組織された当初からの教義が築かれています。つまり、黒人は教会の会員になることはできますが、現時点では神権を受ける資格はない、ということです。

    1951年8月17日付とされる版が、ウィリアム・E・ベレットの本に掲載されました。基本的な文章は同一ですが、末尾に番号付きの一覧で追加の説明文が含まれています。

  • BYUの学生新聞の編集者に宛てた手紙の中で、学生リーダーたちは次のように書きました。

    本学の学生の一人が、Doc’s Barber Shopに入ってサービスを受けようとした際、人種を理由に差別の対象になったことが、私たちの知るところとなりました。 この学生は黒人であり、ただ人種だけを理由にサービスを拒否されました。私たちは同じ学生として、学生全体がこのような差別に対して、できる限り強く抗議すべきだと考えます。 Brigham Young Universityには、男性は肌の色ではなく、その人の価値によって受け入れられるべきだという伝統があります。
  • 1951年4月10日、ジョセフ・アンダーソンは第一大管長会を代表してハーバート・A・フォードに手紙を書き、彼らの同情と、神権および神殿の制限がいつか取り除かれるという約束を伝えて彼を安心させました。

    あなたの手紙は . . . 受け取り、深い真心からの同情をもって読みました。同じ状況に置かれているあなた自身や何百万ものほかの人々の境遇を思うと、兄弟たちの心は悲しみで血を流す思いです。しかし、そのことについては、兄弟たちにも教会にもいかなる責任もありません。. . .
    兄弟たちは、あなたが落胆せず、勇気を失わず、義にかなった生活を送ることを望んでいると、私からお伝えするようにと言っています。道の終わりのどこかで、もしあなたが福音の啓示された真理に従って義にかなった生活を送るなら、人類のほかの人々が受けているのと同じ祝福があなたを待っています。
  • アブナー・ハウエルとマーサ・ハウエルがユタ州の外へ旅行する予定だと知ると、使徒のリグランド・リチャーズ、マーク・E・ピーターセン、スペンサー・W・キンボールは、それぞれ彼の計画について本人と直接会って話しました。エルダー・リグランド・リチャーズは紹介状を書き、その夫婦が「都合のよいところで、わたしたちの人々、宣教師、そして聖徒たちを訪ねるよう招かれている」と伝えました。

    アブナー・ハウエルは、ボストン、シンシナティ(そこには黒人の会員であるレン・ホープとメアリー・ホープが住んでいました)、アトランタ、シュリーブポートで会員や宣教師に話をした際、温かく迎えられたと記録しています。

    アブナー自身は、この旅をした個人的な動機について、ただ「東部と南部を少し見てみたかった」からだと述べています。後に彼は、この旅をもともと計画したのは「向こうに親戚がたくさんいて……この旅でそのうち何人かを訪ねた」からでもあったと述べています。

    しかし、1950年代のファイヤーサイドの音声記録で、アブナーは、エルダー・スティーブン・L・リチャーズから次のように頼まれたと述べています。

    彼は、「短い伝道部に行って、教会を離れた人たちのうち何人かを教会に戻せるかどうか見てほしい」と言いました。 . . . 彼は、「クロード・ピーターセン兄弟をあなたにつけましょう」と言いました。クロード・ピーターセン兄弟は……マーク・ピーターセンの兄弟です。そこで私たちは6週間行って、20人を教会に戻しました。でも、彼らは長くはとどまりませんでした。しかし、私たちは彼らを戻すことはできました。彼は私にこんなことも言いました。「もし彼らを戻せるなら、. . . もし彼らが私たちと交わりたくないのであれば、ここでスペイン語を話す人たちのためにしたように、彼ら専用の教会を建てましょう。」
  • 1952年6月17日、伝道部会長エバン・P・ライトは、その国でより多くの神権指導者が必要であることを次のように述べました。

    南アフリカ伝道部では、神権を通した指導者がひどく不足しており、できるだけ早く男性を聖任したいと強く思っています。

    1949年から、6人の宣教師が会員の先祖の系統をたどるのを助けるために、時間の多くを系図の作業に充てるよう割り当てられていましたが、結果は期待外れでした。1952年4月14日、ライト会長は次のように説明していました。

    私たちの人々の多くは、自分の家系をアフリカの外までたどることができず、そのため神権への聖任を受ける資格がありません。ほかの人たちは、3代前から6代、あるいは7代前の奴隷の系統に行き当たっており、その結果として多くの疑問が提起されてきました。
  • この問題が「直面し、解決しなければならない最も差し迫った問題の一つ」であるというデビッド・O・マッケイの発言についてのウィルキンソンの回想は、マッケイ大管長に宛てた未送付の手紙の中で書かれたものでした。

    1954年2月22日、ウィルキンソンはその手紙を、彼の「検討」のためにエルダー・アダム・S・ベニオンに転送しました。エルダー・ベニオンは当時、神権の禁止措置について話し合うための十二使徒定員会の特別委員会に関わっていました。

    ウィルキンソンは1954年6月1日、ベニオンに再び手紙を書きました。レナード・アリントンによれば、1954年5月13日までに、この問題に関する十二使徒定員会の数人の委員による特別委員会の作業は「成果のないまま」終わっており、祈ったうえで、マッケイ大管長は方針を変更するには「まだ時機が熟していない」と最終的に結論づけていました。

  • クモラの南部の使者は、南アフリカにおける教会の公式定期刊行物であり、マッケイ大管長が、男性が神権を受ける前に自分の系譜をアフリカの外までたどるという要件を廃止することで、「大きな祝福をもたらした」と報じました。

    マッケイの訪問中、南アフリカ伝道部会長リロイ・ダンカンは次のように述べています。「マッケイ大管長は私に、自分が受けた印象は正しい源から来たと感じており、自分たちに正しい指示を与えたと分かっている、と話しました。」

    この方針は主に、見た目が白人に見える男性に利益をもたらしました。彼らはもはや、自分にアフリカ系の祖先がいないことを証明する必要がなくなったからです。これは、アフリカ系の祖先を隠すことができない人々の状況を変えるものではありませんでした。

  • その会話の日付は、ときに「1954年春」と記憶されています。しかし、1954年3月24日付のマクマリンからマッケイへの手紙の中で、マクマリンは「数日前にあなたとご一緒できた楽しい訪問」に感謝しています。

  • マクマリンは、会話が終わった直後にそれを記録したと、複数回にわたって主張しました。たとえば、1968年にマッケイの息子たちに宛てた手紙の中で、彼は次のように述べています。

    私は、あなたのお父様の言葉をほぼ正確に報告できます。というのも、その言葉が私の記憶に強く刻まれており、さらに私たちの会見から数時間以内に、その話し合い全体を詳しく記録したからです。

    この回想にはさまざまな版があります。そのうちの一つは、おそらく最も早い版で、日付のない1ページの文書「1954年春のデイビッド・O・マッケイ大管長との会話に関するコメント」に含まれています。

    より長い版は、1970年にマッケイ大管長が亡くなるまでの関連する出来事の要約も含めて、1979年3月6日に作成されました。後者の記録で、マクマリンは、マッケイの息子たちがその記述の正確さを父親に確認したと記しています。

  • スターリング・M・マクマリンは、マッケイ大管長が自分に、黒人に神権を与えないことには「聖典上の先例」があると話し、具体的にアブラハム1:26-27に言及したと報告しています。

  • 元教会歴史家のレナード・アリントンは、1954年5月13日にエルダー・アダム・S・ベニオンが話すのを聞いたと報告しており、その際ベニオンは、この問題を調査するために任命された十二使徒の特別委員会の作業結果について非公式に報告していました。

    4日後、ウォレス・F・ベネット上院議員はエルダー・ベニオンに次のように書きました。

    あなたは、この点[神権禁止に関して]について教会指導部が今まさに教義の慎重な再評価を行っていると示されました。この研究と、そこから得られた結論を、一般の平信徒会員に広く知らせることには、非常に大きな価値があるのではないでしょうか。もし結論が、現在の聖文理解に基づいて神がこの特定の制限を命じておられる、しかし黒人がそれ以外の点で差別されるべきではないというのが指導部の熟慮のうえでの判断である、というものであれ――あるいは結論が何であれ――そのような探求の手法そのものが、知られ、実践されるなら、教会の動的な能力を示すことになるでしょう。
  • 1954年5月17日、アメリカ合衆国最高裁判所は、ブラウン対教育委員会事件で判決を下しました。判決文の中で、ウォーレン首席判事は、「公教育の分野において、『分離すれども平等』という原則に居場所はない」と述べ、分離された学校は「本質的に不平等」であるとしました。

    その結果、裁判所は、原告たちが「合衆国憲法修正第14条で保障されている法の平等な保護を奪われている」と判断しました。

  • ユタ州プロボで開かれた「大学レベルの宗教教師大会」での演説で、ピーターソンは、人種隔離は聖書によって認められていると主張しました。彼は公民権に関する法律と異人種間結婚を非難し、自分が話していた教会の教師たちに対して、この問題について「人の哲学に惑わされないように」と警告しました。

  • 1985年のローウェル・ベニオンとのインタビューで、彼は1954年ごろ、自分の町では「サウスカロライナ州にいた祖母に黒人の血が入っていたと信じられている」という理由で神権の祝福を拒まれた若い男性から連絡を受けたことを回想しました。

    その後、ベニオンはデビッド・O・マッケイ大管長に相談しました。マッケイ大管長は、いつの日かこの件について天の御父から何を言うことになるのかを考えたうえで、その若い男性が神権に聖任されること、そして彼の姉妹が神殿で結婚することを認めました。

  • その本はシカゴ大学から出版され、モルモン書、奉献の律法、政治、「モルモン教の価値観」など、多くの話題を含んでいました。

  • レナード・アリントンは、この省略についてオディーアに宛てた手紙の中で、この問題は「教会内の『リベラル派』の一部にとって最大のつまずきの一つです」と書きました。

  • フィジー人は、1924年に最初の宣教師たちが到着して以来、神権制限の対象でした。この問題を調査した後、デビッド・O・マッケイは顧問たちに「[フィジー人]はネグロイド人種ではないことを示す証拠がある」と報告しました。彼は彼らの聖任を認め、「こうしてその禁止は、アフリカ系の黒人に限定されることになりました」。

  • 1958年10月11日、エルダー・ジョセフ・フィールディング・スミスは、教会の家長たちの集まりで次のように述べました。

    黒人は神権を持つことができず、神権を持たないため、主がその制限を取り除くまでは、神の王国の高揚に入ることはできません。したがって、アブラハム、イサク、ヤコブのすべての祝福を受ける資格はありません。

    その数年後、スミス大管長は、ある黒人の聖徒の家長の祝福は、その人がアブラハムやイスラエルの十二部族の一つの系統であると宣言するのではなく、「カインまたはカナンの血統であることを宣言するだろう」と述べました。

  • エルダー・ハロルド・B・リーが南アフリカ伝道部を訪れていたとき、伝道部会長グレン・G・フィッシャーは、彼が二人の若い黒人の末日聖徒の女性を訪ねた際に同行していました。伝道部会長は次のように記録しています。

    エルダー・リーは午後の大半を彼らと一緒に過ごしました。……彼は彼らに自分たちと同じ人種の中で結婚するよう勧め、それからこう言いました。「もしあなたがたが教会に対して真実で忠実であり続けるなら、いつか教会の方針は変わり、福音のあらゆる祝福をあなたがたも受けられる時が来ます。」 この発言はそのような言い方だったので、私は、この約束は来世だけでなく、この世でのことでもあるというはっきりした印象を受けました。
  • 1958年版のモルモンの教義には、当時の指導者や会員の間で一般的に受け入れられていた黒人に関する見解について、詳細な理屈を示した項目が含まれており、見出しには「カイン」「カースト制度」「ハム」「黒人」などがありました。

    使徒たちの読書委員会は、この本のほとんどのページに合計1,067件の誤りがあることを確認し、「この本の再出版は禁止されるべきである」と一致して同意しました。マッコンキー・エルダーは1966年に再びマッケイ大管長に働きかけ、物議を醸しながら第2版の再出版を進めました。

    黒人に関する項目は、第2版(1966年)でも変更されませんでした。訂正された第2版(1979年)では、「黒人」という項目の本文は神権に関する啓示の記述に置き換えられましたが、ほかの項目は、いくつかの細かな点を除いて変更されませんでした。

  • エルダー・マッコンキーは次のように書きました。

    前世であまり勇敢ではなく、そのため現世において一定の霊的な制限を課された人々は、私たちには黒人として知られています。
  • 全国紙のシンジケート掲載コラムニストであり、ジョセフ・フィールディング・スミスの伝記作家、またユタ州立大学のジャーナリズム教授でもあったジョン・J・スチュワートは、著書モルモニズムと黒人の中で、神権の禁止は「神ご自身の二つの大いなる属性、すなわち正義と慈悲の両方と一致している」と主張しました。

  • マクマリンがNAACPで行った演説の後、スターリング・M・マクマリン宛ての手紙の中で、BYUの教授ジョン・L・ソレンソンは、「黒人に関するモルモンの教義は、おそらく差別が関わる実際の状況にはほとんど影響しない」と述べました。それは、「インディアンやポリネシア人が恵まれた立場にあるという『積極的な教義』が、彼らを差別から守らない」のと同じだというのです。

    ソレンソンはさらに、「指導者に期待しすぎることがあまりにも多すぎます。もちろん、問題の責任を第一大管長会のようなスケープゴートに負わせるのは都合がよいのですが、指導者が今度はどれほど大衆の追随者でもなければならないかを理解している人は、ほとんどいません」と述べました。

    その例として彼は、公的福祉に関する自分の立場についてHeber J. Grantに会員が従おうとしなかったこと、1933年の禁酒法の問題、そしてBrigham Youngのもとで聖徒たちがUnited Orderを受け入れなかったことを挙げました。

  • Salt Lake Cityの全米有色人種地位向上協会(NAACP)の指導者であるAlbert B. Fritzは、次のように述べたと報じられました。

    3、4年前のプロボでは、公民権の状況は「ひどい」ものでした。彼は、BYUのナイジェリア人学生が、有色人種の学生にはプロボの人々がアパートを貸そうとしなかったため、プロテスタントの教会の屋根裏に住まなければならなかったことを話しました。彼によれば、状況は改善しています。 しかし会合では、昨年のジュニア・プロムに黒人の芸能人が呼ばれなかったのは、どのモーテルやホテルも彼らの宿泊を認めなかったためだということも明らかにされました。
  • BYU学長アーネスト・L・ウィルキンソンによれば、その会合に出席していた3人の使徒のうち1人はハロルド・B・リーでした。残る2人の名前は明かされていませんでした。

  • ウィルキンソン学長は、1960年11月10日のBYU理事会の会合で、次のようなやり取りがあったと報告しました。

    リー兄弟は私を見て、要するにこう言いました。「もし私の孫娘がいつかBYUに行って、そこで有色人種の青年と婚約するようなことがあれば、私はあなたに責任があるとするでしょう。」私は要するに、責任を負うべきなのは彼自身だと答えました。なぜなら、彼は現在の方針を認めた理事会の一員だったからです。そして、もしそれが正しくないなら、彼がそれを変えるべきだと述べました。私はこの件を理事会全体の前に持ち出すよう指示されました。その場にいた3人のメンバーは、BYUから有色人種の学生を締め出すことに賛成していました。これは非常に重大な問題であり、もちろん、明らかに双方に議論の余地はありますが、いずれにせよ私たちはこれに正面から向き合い、解決しなければならないでしょう。

    この時点では、資格のある黒人学生をBYUから特に排除するための措置は取られませんでしたが、「積極的に勧誘して入学を勧めることはしない」という方針は、1969年まで維持されました。

  • 1961年、デビッド・O・マッケイは日記の中で、神権禁止は『アブラハム書』の一節に「基づいている」と述べました。その箇所では、ファラオは「彼の先祖が、血管に有色の血を持つエジプタスであったために、神権を与えられなかった」とされています。

    マッケイは1947年にBYUの学生に宛てた手紙でも、同様の考えを述べていました。

  • スチュワート・ユードールが1947年に、自分が「完全な交わりの中で実践的なモルモンにはなれない」理由として挙げた14の理由の一つは、次のとおりです。

    10)あまりにも多くの会員が、敬虔なモルモンであると同時に敬虔な反ユダヤ主義者であり、人前では同胞を愛しながら、私的には黒人嫌悪者でいることをたやすいと感じているため、交わりを持つことは難しくなっています。
  • 第一大管長会の顧問であるモイルとブラウンに宛てた手紙で、スチュワート・L・ユードールは、公民権に関する教会の立場への懸念を示す手紙を同封し、次のように述べました。

    この問題に対するアメリカ国民の敏感さが深まっていることは、疑いありません。教会の公式な立場を明確にするために何らかの対応が取られなければ、こうした感情はさらに強くなり、声高になっていくと私は判断しています。そして、遅かれ早かれ、それが広く公の論評や論争の対象になるのではないかと懸念しています。
  • スチュワート・W・ユーダルへの返答で、モイル・エルダーとブラウン・エルダーは、黒人に関する教会の見解を述べ、1949年の第一大管長会の声明と、神権禁止の前世での起源を説明した1947年7月17日付のローリー・ネルソン宛ての手紙を引用しました。彼らはこう書きました。「マッケイ大管長の現時点での発言は、前任者たちの声明と一致していることがお分かりになるでしょう。」

    さらに、彼らは「私たちは黒人を社交の場に歓迎していません。なぜなら、そうすると異人種間結婚につながるからであり、私たちは異人種間結婚を支持していないからです」と述べました。ジョセフ・スミスを引用して、彼らは「教会は、すべての市民が、憲法の下で……修正されたその憲法の下で……憲法によって保障される……あらゆる自由を受ける権利があると主張しています」と述べました。

    最後に、J・ルーベン・クラーク管長の出典不明の発言を引用して締めくくりました。

    私は、黒人の立場に対して、心から深く深く同情しています。地上の観点から見れば、そのことはおそらく説明がつかないのかもしれません。しかし、それはインディアンやオーストラリアのブッシュマンの立場についても同じです。ただし、ご存じかもしれませんし、ご存じでないかもしれませんが、私たちの思想には、こうしたこの世の不平等を説明しうるいくつかの原則があります。
  • 「1964年の大統領選で、ジョージ・ロムニーが共和党の指名を獲得する可能性があると思いますか?」という質問に対して、雑誌コラムニストのクレア・ブース・ルースは次のように書きました。

    ロムニー氏はモルモン教徒です。モルモン教会は黒人は劣った魂を持っていると教えているように見えます。もしそうであれば、モルモン教徒がミシガン州で黒人票を得るのは多少難しいかもしれません。しかし、この点に関するロムニー氏自身の見解は、彼の教会の見解とは異なることが知られています。これは、ケネディ大統領の教区学校への援助の合憲性に関する見解が、ローマ・カトリック教会の聖職者階級の見解と異なっているのと同じです。

    当時、教会は公民権について公式な声明を出していませんでした。しかし、ジョージ・ロムニーが公民権の強い擁護者であることはよく知られていました。

    1963年にミシガン州憲法制定会議の議長を務めていたとき、ロムニーは、公民権の保護と、それを執行する委員会の両方を州憲法に盛り込むよう強く主張しました。その結果、ミシガン州は、憲法上の権限を持つ公民権委員会を設置した最初の州となりました。
  • ジョセフ・フィールディング・スミス大管長は、黒人の聖徒たちが「聖職の務め」に参加できないことを認めつつも、教会が彼らを「劣った魂」と見なしているというクレア・ブース・ルースの主張に反論し、ジョージ・ロムニーの見解についてのその発言は「誤った前提」に基づいていると述べました。彼は次のように書いています。

    選挙運動では、もしジョージ・ロムニーが候補者になれば、反対者たちは黒人問題をこれ以上ないほど利用することは間違いありません。残念なのは、彼らが誤った前提から出発するため、当然ながら誤った結論に至ることです。一般に「モルモン」と呼ばれている末日聖徒イエス・キリスト教会の会員たちは、黒人に対して敵意を持っていません。また、黒人を「劣った人種」に属すると述べたこともありません。教会には、誠実さと忠実な献身によって尊敬され、重んじられている黒人もいます。教会への扉はすべての人に開かれています。 したがって、もし黒人がバプテスマを受けて教会に入り、按手によって確認を受け、その後も教会の教えに忠実であり、主が与えられた戒めを守り続けるなら、その人は第一の復活にあずかり、神の天の王国に入ることになります。
  • 彼は、その国に教会が恒久的に存在するようになることを見越して、「ナイジェリアの監督エルダー」として任命されました。

  • ラマー・S・ウィリアムズは、アフリカへ出発する前に、デビッド・O・マッケイ大管長とそのほかの教会指導者から次のような指示を受けたと述べました。

    各グループの地元の責任者(指導者)は、私たちによって認められ、おそらくディストリクト・グループ指導者、支部グループ指導者、または支部指導者と呼ばれることになるでしょう。グループ指導者およびその他の儀式を執り行う人々は、按手によって任命されること、そしてこれは神権の聖任と混同されないことについて、デビッド・O・マッケイ大管長によって検討され、承認されました。聖餐はエルダーによって執行され、神権を持たない会衆の特定の男性会員は、あたかも執事であるかのように、会衆に聖餐を配ることを許可されることになっています。
  • とりわけ、アンブローズ・チュクウによるナイジェリアの新聞の記事には、次のように書かれていました。

    モルモン教徒が持っている見解を、個人が持つこと自体には何も問題がないのかもしれません。ですが、複数の人々が結びついて人種憎悪と人種的優越の福音を説き、それによって信用を傷つけられている人々のまさに門口にまでこの教義を持ち込もうとする時、そこには大きな問題があります。 では、私たちはどうすればよいのでしょうか。両手を広げて彼らを迎え入れ、今や永遠に彼らの召使いになるべきなのでしょうか、アーメンとでも言うのでしょうか。彼らに自由と通行の便宜を与え、私たち自身の家の中で、「どれほど傑出し、聖人のような『黒人』であっても、その皮膚の色ゆえに、最も感心できない白人よりもなお劣っている。彼が持っているかもしれない美徳、あるいは持っていないかもしれない美徳のためではなく、ただ――本人には何の落ち度もないのに――その皮膚に黒い色素があるからだ」と語らせるべきなのでしょうか。
  • 1963年、New York Timesの記者ウォレス・ターナーは、ヒュー・B・ブラウン管長が、この禁止を解除する可能性を教会が「視野に入れている」と述べたことに言及しました。⟨しかし⟩、彼はまた、ブラウン管長が「この件ではあまり急ぎたくない」と考えており、「黒人を受け入れる可能性」について話していたとも報じました。

    1963年7月7日、ヒュー・B・ブラウン管長はスチュワート・ユーダルへの手紙の中で、自分とのインタビューについてのニューヨーク・タイムズ紙の報道に対する反応を記しました。

    少し前に、ニューヨーク・タイムズに、この問題に対する私たちの態度に何らかの変化がある可能性を示す特別記事が載っていたことにお気づきだったかもしれません。この記事は、私が記者と行ったインタビューについての記述に正確でない点はありましたが、全体像としてはかなり公平に伝えていました。
  • 1973年、末日聖徒の研究者ユージン・イングランドは、「モルモンの十字架」と題するエッセーを発表し、その中で1963年に当時エルダーだったジョセフ・フィールディング・スミスと会ったと述べています。会談の目的は、教会で良い立場にとどまるために、神権制限についての「前世」の理屈を受け入れなければならないのかを話し合うことでした。一緒に聖典を読み進めた後、エルダー・スミスは「彼の生涯全体を特徴づけた強い誠実さをもって」、こう言いました。

    いいえ、黒人が前世のために神権を与えられていないと信じる必要はありません。私はいつもそう考えてきました。そう教えられましたし、それは筋が通っていると思えたからです。しかし、それは聖典にはっきり書かれているわけではないので、教会で良い立場にあるためにそう信じる必要はありません。そして、私はこの件について何の啓示も受けていません。
  • スミス大管長は、自分が以前に書いた内容を何も変えることを断り、教会は黒人の聖徒が神権の職に就くことを認めていないと確認し、その方針は啓示によってのみ変更できると述べました。また、クレア・ブース・ルースの主張に対して、次のようにも述べました。

    モルモン教会は、黒人が劣った存在であるとは信じておらず、そのようには教えてもいません。知的にも身体的にも、黒人は大きな成果を上げることができ、その可能性は白人と同程度であり、場合によってはそれ以上です。彼らは弁護士、医師、科学者になることができ、大きな成功を収めることもできます。『劣っている』という言葉は、たしかに不適切です。

    Look誌の編集者は、ナイの記事の末尾に声明を付け加え、その中でジョセフ・フィールディング・スミスが次のように述べたと引用しました。

    皆さんに、わたしたちが黒人に対して何らかの敵意を抱いていると思ってほしくはありません。『darkies』はすばらしい人々であり、わたしたちの教会の中で彼らなりの立場があります。
  • NAACPソルトレーク支部会長のアルバート・B・フリッツは、Look 誌の記事によって、「公民権支持者」が「モルモン教会がその日までに『受け入れ可能な』声明を出さなければ、来週の土曜日にテンプル・スクエアでピケを行う」よう促されたと述べました。

    スターリング・M・マクマリンの支援により、総大会の直前に、ヒュー・B・ブラウン、N・エルドン・タナー、そしてNAACPの代表者たちとの会合が手配されました。デビッド・O・マッケイ大管長の日記によると、ブラウン管長はNAACPに対し、抗議を取りやめることに同意してくれるなら、「黒人に関する教会の立場について、総大会のいずれかの部会で声明が出される」と約束したと報告しました。

  • 1963年10月6日、第一大管長会の顧問ヒュー・B・ブラウンは、スターリング・M・マクマリンが起草し、教会会長マッケイが承認した次の声明を読み上げました。

    わたしたちはすべての人に対し、……神のすべての子供たちのための完全な市民的平等の確立に身をささげるよう呼びかけます。
  • この説教は後に、1964年に自由の旗という本に掲載されました。エルダー・ベンソンは次のように述べました。

    審議中の「公民権」法案は、私の確信では、その10%ほどが公民権に関するもので、残りの90%ほどは社会主義的な連邦統制をさらに拡大するものです。
  • 教会の黒人会員が死者のためのバプテスマを自分で執り行えるかどうかという問題には、教会史の中で時期によって異なる答えが出されていました。

    例えば、1875年には、8人の黒人聖徒が、亡くなった46人の家族や友人のためのバプテスマと確認で代理人を務めました。さらに、1888年と1894年には、黒人の末日聖徒ジェーン・マニング・ジェームズが、死者のためのバプテスマを行う際に代理人を務めました。

    しかし、1912年には、黒人会員のサミュエル・チェンバースとアマンダ・チェンバースは、亡くなった先祖や友人のために、ノルウェー人の夫婦に代理として奉仕してもらいました。

    さらに、2019年に研究者トニャ・S・ライターは、1924年から1942年まで記録された死者のためのバプテスマの登録簿について説明しました。この登録簿には、黒人の聖徒たちが依頼した死者のためのバプテスマで代理人を務めることになっていた白人の代理人に関する情報が含まれていました。この登録簿は、現在のところ研究には利用できません。

  • ハワード・W・ハンターエルダーとエルレイ・L・クリスチャンセンエルダーが提案し、アルビン・R・ダイアーがその方針を提案し、承認のためにデビッド・O・マッケイ大管長に提出されました。

  • モルモン書とジョセフ・スミスに関するパンフレットを受け取った後、ジョセフ・ウィリアム・ビリー・ジョンソンはガーナのケープ・コーストで「末日聖徒」の教会を始めました。ジョンソンは、1978年に最初の宣教師たちが到着する前に、約1,000人から成る10の支部を組織しました。

  • 1965年3月3日の日記の記述で、BYU学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、ナイジェリア人学生への奨学金を承認した1963年のマッケイ大管長の決定に対する、使徒ハロルド・B・リーの反対を記録しています。

    エルダー・リーは後に、「これはBYUに社会的な状況を生み出し、1万8千人の自校の学生の中に6人ほどの黒人学生を入れることになった」と説明しました。彼は、そのプログラムが「適切な許可なしに進められている」ことに懸念を示しました。

  • 6月15日、デビッド・O・マッカイは顧問たちに、自分は「入念に考え、祈った結果、ナイジェリアに進出すべきだと確信している」と述べ、神権を授けることはできないにもかかわらず、「彼らに教会の会員資格を与え、……補助組織の恩恵を与える」べきだと語っていました。

  • エルダー・ハロルド・B・リーは、ナイジェリアでの伝道部の継続に反対し、「恒久的なビザの取得がこれほど長く遅れているのは、主がまだこの業を行う用意ができていない証拠ではないか」と疑問を呈しました。

    彼はこう付け加えました。

    彼が懸念していたのは、もし私たちがそこへ行き、NAACPが教会に対して抗議行動を正当化できる材料を見つけようとして警戒している中で、私たちが何人かの黒人にバプテスマを授け、その後で福音の儀式を執行するために白人の宣教師を送らなければならないことを彼らが知れば、深刻な結果を招くおそれがある、ということでした。というのも、それは彼らにとって、私たちが黒人を二級市民と見なしていることを示しているように受け取られるからです。彼は、そこへ行ってナイジェリア人の間で布教することは、私たちにできることの中でもほとんど最も危険なことだと考えていました。
  • 1965年11月4日の第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、エルダー・マーク・E・ピーターセンが「ラマー・ウィリアムズ兄弟を直ちに帰国させる」ことを動議し、デルバート・L・ステイプリーがこれを支持しました。

    数十年後、ウィリアムズはナイジェリアから帰国したことを振り返り、こう書きました。

    教会を確立する時期ではありませんでした。私はリー大管長と一緒にロサンゼルスから飛行機で移動していたとき、彼がこう言いました。「ラマー、教会を確立するのは、ただ時期の問題なのです。」そして、彼の言うとおりでした。時期はまだ来ていませんでした。
  • ラマー・ウィリアムズが帰国してから数か月のうちに、ナイジェリアは深刻な混乱が長く続く時期に入りました。この時期は、1966年1月15日のクーデター未遂から始まりました。1966年後半には一連の虐殺が起こり、やがてビアフラに対するナイジェリア内戦へと至り、何年にもわたる人道危機を引き起こしました。1981年に、ウィリアムズは次のように回想しています。

    もし私がそのまま残っていたら、その対立のまっただ中にいたはずです。……主は、私をナイジェリアから出すことに何らかの形で関わっておられました。
  • ユタ大学に提出されたデイビッド・ブリューワーの博士論文は、ユタ州のエリート層の見解について、量的データと質的データの両方を示しました。ほとんどの場合、公民権と神権禁止に関する見解は、一貫して肯定的か否定的かのどちらかでした。しかし、彼は次のように指摘しました。

    公民権を支持していても、教会の職にとどまり続ける、あるいはモルモン教と強く自分を重ねている指導者は、しばしば肯定と否定が入り混じった一貫性のない反応を示します。

    アーサー・M・リチャードソンによる小冊子は、教会指導者の発言を根拠にして人種隔離を支持しました。これは、こうした社会的・宗教的問題が、多くの教会員の考えの中で密接に結びついていたことを示しています。

  • 1966年10月25日にBYUの学生に向けて行った講演で、エルダー・ベンソンは、FBI長官J・エドガー・フーヴァーの軽蔑的な発言を引用して、次のように述べました。

    今日アメリカにおける共産主義の運動の主な推進力の一つは、いわゆる公民権運動を通じたものです。さて、公民権そのものに問題があるわけではありません。衝撃的なのは、公民権の名の下に行われていることです。 今日アメリカで、いわゆる公民権運動の指導者として一般に認識されている人物は、共産主義の訓練学校で講演したことがあり、共産主義の訓練学校で講演したことがあり、共産主義の資金源を通じて資金を募り、共産主義者を最高幹部級の補佐役として雇い、共産主義のフロント団体と関係を持ち、共産主義系の報道機関でしばしば称賛され、そして疑いなく共産主義の路線と歩調を合わせている人物です。
  • 1980年12月号の『エンサイン』は、1965年にアンソニー・U・オビナが、美しい建物を見せられる夢を見たと報じました。数年後、彼はReaders Digest誌の中でソルトレーク神殿の写真を見たとき、その建物だと分かりました。彼はその後、教会本部に手紙を書き、ナイジェリアの自分の地域で集会を組織し始めました。

  • もともとはDialogue: A Journal of Mormon Thoughtへの掲載のために提出された手紙でしたが、その後、この手紙はデビッド・O・マッケイ大管長や、教会および市民社会のほかの指導者たちにも写しが送られました。また、New York TimesやTime Magazineのような全国的な報道機関にも取り上げられました。

    その手紙には次のように書かれていました。

    現在黒人の交わりに課されている制限は、モルモンの本質的な思想に実際の根拠を持たない、社会的かつ制度的な慣行です。それは、私たちが最も大切にしている霊的・道徳的な理想と明らかに矛盾しています。 モルモンは皆、自分たちの教会が、いつか黒人に完全な交わりが与えられる日が来ると教えていることを知っています。まさにその日はもう来ています。
  • ユーダルが受け取った多くの手紙や賛否両論の意見の中には、エルダー・スペンサー・W・キンボールからの返答もありました。彼はその一部として次のように書いています。

    私は、あなたがこの世の分野で高い地位に上っていくのを見てきました。 . . . あなたを誇りに思ってきました。 しかし、親愛なるスチュワート、世俗的な事柄におけるあなたの卓越した地位も、政府内でのあなたの著名な立場も、これほど重大な思い上がりを正当化するものではありません。 . . . このような思い上がりに対して、私は主の言葉を引用しなければなりません。 「また、あなたは自分のかしらである者、すなわち教会のかしらである者に命じてはならない。」教義と聖約28:6 スチュワート、この手紙があなたのためになることを心から願っています。私はあなたに怒ってはいません。私はあなたを気の毒に思っています。
  • スチュワート・ユーダルが書いたその記事に応えて、エルダー・デルバート・L・ステイプリーはユーダルに次のような手紙を書きました。

    神ご自身が黒人にそののろいを与えられたのであり、そののろいを取り除くのは人ではなく神です。教会は、神がそれを認めるまで、黒人に対する制限を取り除くことはできません。その時期について、あるいはそれが実際に起こるのかどうかについて、私たちにはわかりません。しかし、たとえ何らかの制限があったとしても、黒人が福音を受け入れてそれに従って生きるなら、その人の永遠の機会は、その忠実さに報いるうえで、より有利な立場に置かれると考えなければなりません。教会には多くの黒人会員がいます。その大部分は非常に忠実で献身的ですが、自分たちの制限を認識しています。私たちは教会員になった人々を助けようとしています。人々が神の定めた秩序を変えたいと思っているからといって、神がそれを認めるとは限りません。
  • ベンソン・エルダーは総会での説教の中で、「いわゆる公民権運動……は、アメリカで革命を起こすための共産主義の計画として利用されている」という自分の見解を改めて述べました。

    彼はまた、「私たちは、その責任を黒人に負わせてはなりません。彼らは、職業的な共産主義の扇動者たちによって、弾よけの主な供給源として利用されるために選ばれた、不運な集団にすぎません」と述べました。

    エルダー・ベンソンはその前の週に、この件について話す許可をマッケイ大管長から得ていました。

  • メンフィスでマーティン・ルーサー・キング博士が暗殺された後、ブラウン管長は次のように述べたと報じられました。

    このたび、私たちは、マーティン・ルーサー・キングの死去の知らせに深い悲しみと衝撃を表します。彼は、自分の民の幸福だと信じていたことのために生涯をささげた人物でした。 この時代にこのようなことが起こりうるというのは、衝撃的なことです。私たちは、神の祝福が彼の家族、友人、そして彼に関わる人々の上にあるよう祈ります。

    マッケイ大管長が用意していた発言を息子が代読した中で、「福音の中に、憎しみ、迫害、圧政、支配、不正の対極にあるものが見いだされる。これらは世界中で苦難、破壊、死を助長するものです」と述べられました。

  • 1968年から1969年にかけて、テキサス大学エルパソ校のほかにも、ボイコットを呼びかけた特定の団体の例として、次の地域の個人や公職者がいました。

    • San Jose State University

    • University of New Mexico

    • California State College-Hayward

    • Stanford University

    • Arizona State University

    • University of Wyoming

  • マーティン・ルーサー・キングが暗殺されたあと、黒人学生の活動が活発になり、その結果、BYUとのスポーツ競技をボイコットするよう求める声が高まりました。BYU学長アーネスト・ウィルキンソンは、1968年から69年にかけて、そのような出来事を32件まとめました。

    この種の抗議で最初に知られているものは、テキサス大学エルパソ校(UTEP)の黒人アスリートのグループが起こしたものでした。彼らは、BYUが「黒人は劣っており、私たちは悪魔の弟子である」と信じていると述べ、陸上競技大会をボイコットしました。

    その学生たちはチームから出場停止処分を受け、BYUの学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、その発言は事実ではないと述べて応じました。

  • BYUの『デイリー・ユニバース』は、チーム内のほかの6人の黒人選手の気持ちを代弁して、ある黒人選手が次のように述べたと報じました。

    たぶん試合には出ません。僕たちがどう感じているか、わかってもらわないといけません。あのモルモンたちは、私たちはカインのしるしを受けていて、黒人だから天国に行けないと言っているんです。もう、ああいう人たちとはどんな形でも関わりたくありません。

    ボイコットはサンノゼ州立大学の学生会からも支持され、大学学長は、奨学金を失うおそれのある黒人学生のための資金を集めようとしていると述べました。

  • Daily Universe の編集者ジュディ・ガイスラーは次のように述べました。

    白人が優位に立つ土地で白人として生まれたことに感謝しています。しかしそれ以上に、アメリカにおける人種の「二重基準」という偽善を終わらせるために、自分にできることをすべてするのが自分の責任だと分かるだけの社会的責任感を持っていることに、よりいっそう感謝しています。

    別の編集者であるロジャー・ギレスピーは、次のように述べました。

    問題は、黒人アスリートたちが、BYUはその方針において黒人に対して差別していると主張している点にあります。 . . . BYUは、キャンパス内に偏見があってはならないと宣言しています。多くの学校の慣行とは異なり、BYUの入学書類には人種を示す欄はありません。ウィルキンソン学長は、プロボのキャンパスが世界でも最も国際色豊かな場所の一つであると皆に公言していることを誇りにしています。 . . . もちろん、これには黒人も含まれます。

    しかし、その数週間後、ある編集者は、この方針のためにキャンパスに黒人の学生が正確に何人いるのかを把握することは不可能だと認めました。

  • BYUの学生アラン・A・エンケは、自分が「白人が支配的な国で白人であることに感謝している」というジュディ・ガイスラーの発言と、問題の根本はサンノゼ州立大学にあるというロジャー・ギレスピーの主張を批判しました。彼はこう述べました。

    ジュディもロジャーも、サンノゼ州立大学の問題よりはるかに深刻な問題を抱えています。ジュディは、偽善と闘うためにできることは何でもすると言っていますが、黒人と立場を入れ替えようとはどうやら思っていません。ロジャーの問題はもっと深刻です。彼は、BYUに問題があることを信じようとしません。文脈を無視した引用をし、さらにUTEPが自分たちの「問題」を解決したと示すことで、ロジャーは、モルモン教会の目には黒人も白人も同じであると私たちに信じさせようとしています。 しかし、もし私たちがデビッド・O・マッケイを神の預言者として受け入れるなら、黒人は神権を受けることができないという事実も受け入れなければなりません。また、もし黒人が、人種差別をモルモン教会の完全な権利から排除されることだと定義するなら、その人の目には私たちは人種差別の罪があることになります。ロジャーがこれを私たちの問題として受け入れるかどうかは彼次第ですが、私たちが砂の中から頭を持ち上げて、私たちが神の言葉として受け入れている教義が、黒人の平等という考え方と衝突していることを認めるべき時が来ていると私は思います。
  • 何人かの人は、マッケイが神権の制限について何度も強く祈ったと報告しています。たとえば、リチャード・ジャクソンは後に、1968年から1969年の出来事を次のように報告しています。

    マッケイ大管長が執務室に入ってきました。私たちには、彼がひどく苦悩しているのが分かりました。彼はこう言いました。『もうたくさんだ! もう二度としない!』 だれかが『何をですか』と言いました。すると彼はこう言いました。『いや、黒人に神権を与えることについて、私は絶えずしつこく迫られているのだ。私は主に繰り返し尋ねてきた。最後にそうしたのは昨夜遅くだった。すると、何の説明もなく、この件をもう二度と主に持ち出してはならない、時は来るが、それは私の時ではない、この件はそのままにしておきなさい、と言われたのだ。』
  • 地域公民権局長のHollis B. Bachからの書簡では、審査の後、「Brigham Young Universityは1964年公民権法第VI編を順守しているとみなされる」と書かれていました。

    彼はこう付け加えました。

    昨年の春にあなたがたのキャンパスを訪れて以来、私たちはいくつかの高等教育機関を訪問してきました。Brigham Youngは、私たちがこれまで訪れた学校の中でも、今でも非常に優れた学校の一つだと考えていることを、あなたがたにお伝えしたいと思います。
  • Daily Universeの編集者ジュディ・ガイスラーは、その行事の学生企画者の一人であるボブ・エリオットが次のように述べたと報じました。

    当初、私たちは黒人の講演者を確保しようとしましたが、理事会の最近の決定により、. . . その試みは不可能になりました。. . . これらのプログラムがなくなったことで、その週の中心となる部分がほとんど失われましたが、人種理解を深めるために企画された一部の行事は予定どおり続けられます。

    さらに、エリオットは次のように述べたと報じられました。「教会と大学の人種に関する方針についての議論も予定されていましたが、教会と大学の当局者が以前の声明に従うことを望んだため、直前に取りやめなければなりませんでした。」

    しかし、その1週間後、Daily Universe は次のように報じました。

    ウィルキンソン会長は、BYUには特定の人種や宗派を代表する講演者の定員はないと説明しました。 彼が提出した6人のリストのうち、今年、黒人の講演者3人が理事会の承認を受けて講演することになっており、その人数で十分だと判断されたと、ウィルキンソン会長は付け加えました。また、自分の仕事は理事会が定めた方針を実行することだと述べました。
  • スティーブン・G・タガートは、ジョセフ・スミスが南部の状況に対応して神権/神殿の禁止を始め、その後『アブラハム書』の中で神学的な正当化を発展させたと主張しました。

    物議を醸したその本についてのNew York Timesの報道で、著者は次のように述べました。

    黒人に関する方針と、それに伴う教えはすべて、啓示によってではなく、歴史的な状況への対応として非公式に発展したものです。
  • レスター・ブッシュは次のように述べました。

    私は、タガートの論文のこの改訂版のコピーが[1969年]の9月初めごろにヒュー・B・ブラウンに郵送され、ブラウンがそのコピーをマッケイの息子ローレンスに渡して、彼がこの件を父親に持ちかけるよう勧めたことを知りました。

    ブッシュは、マッケイ大管長が息子のローレンスおよびルウェリンとともに、タガートの本と禁令を解除する問題についてヒュー・B・ブラウン管長およびアルビン・R・ダイアー管長と話し合ったと報告しています。

    これらの話し合いの終わりに近づいたころ、ブラウン管長はこう言いました。

    次の教会の大管長が何をするかは、待って見てみましょう。

    ダイヤー大管長の議事録は、ブラウン大管長が「最近、黒人から神権を差し控える方針をマッケイ大管長に撤回してもらおうと二度試みたが、マッケイ大管長はそれについて動くことを拒んだ」と述べて締めくくられていると報告されています。

  • ユージーン・レジスター・ガード紙は、ワイオミング大学対BYUの試合の前に、14人の選手がBYUに対する非暴力の抗議について話し合うためにコーチのもとへ行ったと報じました。

    ウィリアムズは、選手たちはその試合をボイコットする予定ではなかったが、金曜日にイートンの事務所へ行ったときには腕章を着けていたと述べました。彼は、コーチは怒って反応し、選手たちは出場停止になったと言ったと述べました。
  • この出来事の直後から広がり始めた初期の反響の一部について、全国誌Sports Illustratedの記者パット・パットナムは次のように書いています。

    一方、サンノゼ州立大学では、チームが14人を支持してワイオミング戦で色とりどりの腕章を着けることを投票で決め、WACのほかの学校のグループも、ワイオミングを対戦予定から外すよう求めました。 「広がっています」とビル・ウォーターマンは言いました。「全国でです。どんどん広がっています。これは、黒人と白人の両方の大学アスリートにとって、新しい時代になるでしょう。」
  • ソルトレーク・トリビューンによると、公民権に関する次の声明がBYUの管理部門に検討のため提出されました。

    私たちブリガム・ヤング大学の学生自治会役員は、アメリカ合衆国憲法に定められているすべての人の公民権を支持し、それらの権利を制限する非人道的または差別的な行為に反対します。 私たちは、いかなる民族的、人種的、または宗教的集団の成員に対する差別も支持せず、すべての人を兄弟として見ており、よりよい意思疎通と理解のために絶えず努力し続けられることを願っています。 私たちはこれまでも、そして今も、これからも、人種、信条、肌の色、または国籍にかかわらず、ブリガム・ヤング大学の入学要件を満たしたすべての人を学生の一員として歓迎してきましたし、歓迎しており、今後も歓迎し続けます。
  • 1968年から1969年にかけてのBYUの方針に対する反対や抗議の概要は、BYU理事会へのメモにまとめられました。

  • 「Admissions Policy(入学方針)」と題されたこの文書は、1969年11月にBYU理事会に配布するために準備された資料一式に含まれていました。そこには次のように書かれていました。

    Brigham Young Universityの公式な入学方針は、大学案内に次のようにはっきり記されています。「人種、信条、肌の色、または国籍にかかわらず、末日聖徒イエス・キリスト教会の理想と標準に調和した状態を保ち、大学の学業上の要件を満たす学生は、Brigham Young Universityへの入学を認められます。. . .」

    この記述に続いて、同封された段落ではBYUの学生集団の多様性が説明され、「少数派集団や外国人留学生をより歓迎しようと、これほどまでに努力してきた大学は、アメリカ合衆国内にはほとんどないか、あったとしてもごくわずかである」と主張しています。

  • 1969年10月29日に予定されていたBYU理事会の特別会合が11月5日に延期されたため、ウィルキンソンは、最近更新されたBYUの入学方針についての声明を、最近のBYUに対する抗議に関して、教会指導者の確認と同意を得ないままWACに提出せざるを得ませんでした。その声明では、当時のBYUの入学方針は「肌の色を理由に、だれかがBYUに通うことを決して制限していない」と述べられていました。

    それは次のように続きました。

    確かに、私たちのキャンパスには黒人の学生はそれほど多くありません。しかし、それは彼ら自身の判断の結果であって、私たちの方針によるものではありません。私たちの知る限り、BYUのある郡全体で黒人の家族は1家族しかいません。これは、これらの黒人学生がBYUに来ないという判断をするうえで、重要な影響要因であるように見えます。これまでに来た人たちも、現在ここにいる人たちも、自分たちに対して人種差別が行われているとは一度も示唆していません。
  • BYU理事会の特別会議は、黒人学生の入学受け入れと勧誘に関する方針声明に反対があったため、以前に延期されていました。とくに、エルダー・ハロルド・B・リーの影響が大きかったためです。ウィルキンソン学長は次のように報告しました。

    リー兄弟は完全に頑固で、たとえわたしたちが大会から追い出されることになっても、黒人問題に関する方針のいかなる変更にも同意しようとしませんでした

    しかし、ウィルキンソンがデビッド・O・マッケイ大管長の立場について尋ねると、N・エルドン・タナー管長は、「分からないが、大管長はもっと柔軟だと思う」と述べました。

    ウィルキンソンはその2日後にマッケイ大管長との面会を求めましたが、タナー管長から、大管長は面会できないほど病状が重いと伝えられました。

  • 「BYUとLDS教会に対する『人種差別』および『偏見』の告発」と題するBYU理事会宛てのメモの中で、ウィルキンソン学長は、1968年と1969年の32件の出来事に言及しながら、BYUと教会に生じた損害を要約しました。

    ウィルキンソンは、黒人選手を積極的に勧誘していないことと、白人選手に提供しているのと同じ基準で黒人選手に運動競技の奨学金を提供していないことについて、「私たちは運動競技プログラムに関して、二つの点で黒人を差別している」と認めました。

  • 当時BYUに在籍していることが知られていた黒人学生は3人しかいないと認識したうえで、彼は黒人学生の入学に関する大学の方針について「代替案」を示しました。

    A. 第一の選択肢は、[Western Athletic] Conference を脱退することです。 B. 第二の選択肢は、運動競技から完全に撤退することです。 . . C. 第三の選択肢は、黒人の運動選手に関する現在の方針を継続することです。 . . . D. 第四の選択肢は、学業、道徳、運動能力のあらゆる面で資格を満たす黒人の学生がいる場合、他のどの学生と同じ基準でその学生に奨学金を支給する権限が私たちにある、というものです。

    ウィルキンソンは、第4の勧告を採用して差別を減らすにあたって、「これによって、たとえいたとしても、私たちのチームに多くの黒人が入ることにはならないと思う」と認めましたが、この勧告にはいくつかの具体的な「利点」があると主張しました。

  • 1969年12月3日、ウィルキンソンは、エルダー・デルバート・L・ステープリーとの次の会話について述べています。ステープリーは「『Y』で黒人を一切勧誘すべきではないと自分は思う、と言って私を驚かせた」のです。ウィルキンソンはさらに次のように付け加えました。

    私は彼に、彼が出席していなかった理事会の前回の会合で反対の決定がなされたこと、そして私はその方針で進めるつもりだと伝えました。彼は異議を唱えませんでした。
  • スタンフォード大学の学長ケネス・ピッツァーは次のように述べました。

    スタンフォード大学の方針では、人種や国籍を理由に差別を行う機関、またはそのような機関と提携している、もしくはそのような機関の後援を受けている機関とは、行事を予定しないことになっています。
  • ウィルキンソンはさらに詳しく述べました。

    彼らの問題は、BYUと対戦するたびに何らかの騒動が起きていたことであり、1月にバスケットボールの試合が始まると、モルモン教会では黒人は神権を持てないということに対して学生や教職員の感情が非常に強かったため、自分たちのキャンパスで本当に大きな問題が起きるのではないかと大いに懸念していた、ということでした。翌日になると、学長たち自身もある程度同じような気持ちを持っていたことがわかりました。
  • ヒュー・B・ブラウンの孫エドウィン・ファーメージによる後年の伝聞の記録によれば、彼の祖父が黒人会員への完全な神権付与を提案したとき、エルダー・ハロルド・B・リーの反対意見が通りました。

    1969年11月13日に、デビッド・O・マッケイ大管長の健康悪化について第一大管長会と十二使徒定員会で行われたそれ以前の話し合いの中で、エルダー・リーは次のように述べていました。

    新しい方針が決まる前の通常の事柄については、大管長が行動するまでは、第一顧問や第二顧問、あるいは両顧問を含め、わたしたちのだれにも、主が教会の大管長をその務めから解かれるまでは、大管長抜きで新しい方針や新たな変更を決めることはできない、というのが彼の考えでした。彼は、教会の大管長の地位を守るという非常に神聖な責任がわたしたちにはある、と述べました。
  • 1969年12月15日に、教会指導者のみに宛てた書簡が送られました。1970年1月10日には、それがChurch Newsに掲載されました。

    その手紙は第一大管長会によって発表されましたが、署名しているのは顧問であるN・エルドン・タナーとヒュー・B・ブラウンだけです。デビッド・O・マッケイ大管長は重い病気で、8日後に亡くなりました。それ以前に、第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、マッケイ大管長の健康状態を考慮し、今後はタナー管長とブラウン管長が「あらゆる書簡」について第一大管長会を代表して署名することが合意されていました。

  • その手紙の宛名は、「中央幹部、十二使徒の地域代表、ステーク会長、伝道部会長、監督各位」でした。

    憲法上の特権と公民権について、その手紙には次のように書かれていました。

    わたしたちは、黒人も、他の人種の人々と同様に、社会の一員として憲法上の権利を十分に持つべきだと信じており、教会の会員がどこにいても、市民としてこれらの権利が侵されないよう自分の役割を果たすことを願っています。公民権に関しては、すべての市民が法の下で平等な機会と保護を受けなければなりません。
  • 神権の制限について、その手紙にはこう書かれていました。

    この聖約の時代の初めから、ジョセフ・スミスとその後の歴代の教会会長は皆、黒人は、共通の父の霊の子供であり、また地上の両親であるアダムとエバの子孫ではあるものの、まだ神権を受けることにはなっていないと教えてきました。その理由は、私たちは神が知っておられると信じていますが、神はそれを人に十分には明らかにしてこられませんでした。
  • スタンフォード大学がBYUとの運動競技上の関係を断ったことを受けて、第一大管長会顧問ヒュー・B・ブラウンは、神権の禁止はまもなく変わるだろうと述べたと報じられました。彼は、それは「『人権は教会にとって基本的なものなので、物事が進む中での通常の進展の中で』実現するだろう」と考えていました。

    クレア・ミドゥルミスがアルビン・R・ダイアー会長、マーク・E・ピーターセン・エルダー、ヘンリー・スミスの会合の後に書いた日記によると、ブラウン会長のその記者団への発言は「かなりの論争を引き起こしました」。

  • 神権/神殿の制限の起源について説明する中で、スティーブン・G・タガートは次のように結論づけました。

    ジョセフ・スミスは、南部の教会員の安全を心配し、1834年ごろから、黒人を神権に聖任しないよう個人に非公式に助言し始めたように見えます。
  • シアトル公民権労働史プロジェクトのクレイグ・コリソンは、これらの抗議の最初のものについて次のように報告しています。

    最初の大規模な抗議は、予告されていたとおり、3月5日木曜日の正午に行われました。およそ1,000人の学生がハスキー・ユニオン・ビルディング(HUB)に集まり、黒人コミュニティの演説者たちに加え、学内の新左翼系組織の演説者たちの話を聞きました。急進的な新左翼の抗議団体であるシアトル解放戦線は、この集会の準備を手伝い、演説者の一人も出しました。演説が終わると、群衆はキャンパスを横切って管理棟へ行進しました。
  • アーネスト・L・ウィルキンソンが編集したBYUの出版された歴史によれば、1970年3月10日にワシントン州司法長官が作成した意見書には、次のように記されていました。

    大学が把握しているBrigham Young Universityの人種に関する慣行についての唯一の証拠は、人種を理由に差別していないということだけであるため、たとえその宗教的支援団体の教義に個人がどれほど強く反対していたとしても、大学はその教義だけを理由にBYUとの活動への参加を拒否する方針を宣言することはできません。
  • アーネスト・L・ウィルキンソンによるBYUの4巻本の歴史書には、ワシントン州司法長官の意見と似た意見が「ワイオミング州とユタ州の司法長官によって述べられた」とあります。さらに、次のように述べています。

    こうした意見があったにもかかわらず、少数派の学生たちからの圧力は非常に強くなり、ワシントン大学は、モルモン教会の宗教的信条を理由にBYUとの試合を合法的に拒否することはできないという自らの立場を維持するために、司法判断が必要だと判断しました。そこで、この問題を判断してもらうために、BYUを相手取って友好的な訴訟を起こしました。……しかし、ワシントン大学による訴えは却下されました。
  • アーネスト・L・ウィルキンソンによるBYUの歴史書には、ワシントン大学によるBYUへの訴訟を受けて、次のように記されています。

    BYUの運営側は、ワシントン州とオレゴン州の主要な新聞に全面広告を掲載し、その学校のカタログを引用して、人種、信条、肌の色、または国籍に関係なく、あらゆる学生がBrigham Young Universityへの入学を認められていることを示しました。また、保健教育福祉省公民権局デンバー事務所からの書簡も引用し、BYUが1964年公民権法第VI編を順守していると述べました。. . . これらの全面広告は非常に大きな影響力を持ち、北西部のモルモンと非モルモンの市民の両方から支持を得ました。黒人の中にもBYUを支持する人がいました。
  • Minorities, Civil Rights, BYU, and Youという小冊子には、次のように書かれています。

    簡単に言えば、BYUは人種差別的な学校ではありませんが、そのような非難はしばしば情報不足から生じます。

    末日聖徒の聖典、教え、そしてBYUの方針を引用して公民権の支持とすべての人を尊厳をもって扱うことを示した後、その小冊子は第12信仰箇条と第13信仰箇条、そして最近のBYUディボーショナルの話者の言葉を引用して締めくくっています。

    フィラデルフィアのシオン・バプテスト教会の黒人牧師であり、Black Self-help Opportunity Centers の創設者でもあるレオン・H・サリバン牧師は、昨年12月、兄弟愛についての発言により、Brigham Young大学の学生たちからスタンディングオベーションを受けました。アメリカにいる多くの人種、肌の色、信条のあいだでより大きな理解を求める中で、サリバン牧師の発言は特に重要に思われます。「ですから私は、ここにいる皆さん、アメリカ人として、白人のアメリカ人、アジア系アメリカ人、アフリカ系アメリカ人である皆さん全員に訴えます。私たちが共に歩み、疲れ果ててしまわないように、私たちの手を取ってください。」 この情報が、公民権と黒人に関するBYUと教会の立場を説明するうえで、皆さんのお役に立つことを願っています。私たちの立場を説明する際には、あらゆる人種や宗教の人々に親しみをもって接することをお勧めします。
  • その新聞の社説は、「黒人の管理職者に加え、ブラック・スチューデント・ユニオンの代表者も含まれていた」アリゾナ大学の「事実調査委員会」の結論を報じました。そして次のように述べました。

    委員会の結論は、教会の慣行に免罪符を与えるものではありませんでしたが、BYUが他のどの大学よりも人種差別的だというわけではない、というものでした。 その結果、委員会はウェスタン・アスレチック・カンファレンス加盟校に対し、BYUを標的とした今後の抗議活動や妨害行為を中止するよう求めました。

    その報告書は、次のような指摘もしています。

    私たちは、Brigham Young Universityが、黒人を別個の存在としてではなく、私たちの社会に欠かせない一部として、その文化や特性に学生がもっと触れられるようにしなかった点で、重大な誤りを犯したと考えています。 . . . この黒人募集の分野に関する議論を締めくくるにあたり、事実調査委員会は、私たちの訪問中に表明されたほどの愛情と兄弟愛が黒人に対して本当にあるのであれば、これらのプログラムを実行に移すための意志と資金は、確かに見つけられるはずだと考えています。
  • ケイレブ・シュリーブの声明は、ほかの背景資料とともに、第一大管長会宛ての手紙の中で署名され、立会人によって確認され、公証されました。現在のところ、返答があったことを示す現存資料は確認されていません。

    神権と神殿の制限を擁護した一部の人たちとは異なり、Shreeveは、その方針を変更する教会大管長の権限を認めており、それは「主が……ご自身の……預言者に啓示によって……そう宣言される」まで維持されるだろうと述べました。

  • ケイレブ・シュリーブは、父トーマス・A・シュリーブが1872年から1884年まで、同じワードの会員であるイライジャ・エイブルの親しい友人だったと報告しました。ケイレブによると、父は彼ときょうだいたちに、ジョセフ・スミスが涙ながらにイライジャ・エイブルのもとに来て、「あなたのもとに来て、あなたが今持っている聖なる神権をあなたから取り下げるよう主から命じられました」と言ったと、繰り返し語っていたそうです。

    その預言者は、それはエリヤがこの世で何かをしたからではなく、「それはすべて前世で起こった」と言ったと伝えられています。ジョセフ・スミスはエリヤに、「主の御名によって、来世において[sic]あなたは黒人種族のかしらに立ち、主の時にかなって、あなたに与えられるべきすべてのものを受け継ぐ」と約束しました。

  • ブラジルでは神権に関する宣教師用のレッスンが使われており、そこでは「黒人はまだ神権を受けることができない」が、「将来、神によってそれが示されたとき」に受けることになると説明されていました。改宗希望者には、自分の先祖に黒人がいるかどうかが尋ねられました。いない場合でも、後になってアフリカ系の祖先がいることが分かったら、「支部会長に知らせる」か、そしてそれでもなお「教会に忠実であり続ける」かどうかを尋ねられました。

  • ウィルキンソンは次のように報告しました。

    すぐに、そして私はうれしい驚きを感じましたが、ニューメキシコのヒーディ会長が発言し、それはありえないと思うと言いました。ほかのすべての会長も同じ見解を示したので、ニューバーン会長には完全に脱退するか、とどまって総当たり戦を行うかのどちらかしかないことが明らかでした。 . . . 私の返答は、私が配布したほかの情報と合わせて、この[B Y Uに対する]非難を解消したと思います。この秋、アリゾナ州立大学の代表者がBYUを訪問することで合意しました。
  • エドワード・L・キンボールによると、スペンサー・W・キンボールは1971年5月28日付の第一大管長会からの手紙を受け取り、そこには黒人の会員は「適切に家長の祝福を受けることができる」と書かれていました。

    また、彼は、彼らが「特定の血統に属すると宣言されることは、その人の血が他の人種の血と混じっていないことを意味するわけではない」とされうること、そしてバプテスマを受けた人が「養子縁組によってイスラエルの家の一員になる……というのは教会の教義ではない」と報告しました。

  • ラマー・ウィリアムズは、ラフィン・ブリッジフォースやほかの人たちに、自分たちの考えや懸念について教会指導者に相談するよう勧めました。

    そこで、彼らのうち2人か3人が一緒になって、中央幹部のところへ行きました。ゴードン・ヒンクレーと、たしかボイド・パッカーだったと思います。彼らは腰を下ろして何度か話し合いをし、自分たちの事情を彼らの前で訴えました。すると、この町で組織を持つことはできると言われました。私はこう言いました。「ただし、神権を持つことはできませんし、聖餐会を開くこともできません。でも、扶助協会やPrimary、あるいはサンデースクールなど、教会が認めるものであれば運営することはできます。」それで、これは実現可能だと伝えられました。
  • 全国配布のニューズウィーク誌は、神権と神殿の禁止措置について、「教会はそれを、大管長を通して語られる神によってのみ変更できる事柄だと、一貫して見なしてきた」と述べました。

    Dan L. ThrappはLos Angeles Timesで、リー大管長が次のように述べたと紹介しました。「私はこう尋ねられました。『この問題について、教会員でない人にどう説明しますか。』私はこう答えました。『現代の啓示を信じない人に対しては、十分な説明はありません。啓示を信じる人にとっては、疑問であるはずがありません。』私たちはその立場を守っています。……私たちには何千人もの黒人の〔教会員〕がいて、その中には、私たちの中でも最も忠実な人たちがいます。」

    ジェネシス・グループの指導者ラフィン・ブリッジフォースとエルダー・ゴードン・B・ヒンクレーとの会話の中で、著名な報道記者ウォレス・ターナーは、「大管長、またはその後継者の一人が変更を निर्देशする啓示を受けるまでは、末日聖徒イエス・キリスト教会において、黒人男性が祭司になることはない」と報じました。

  • レスター・ブッシュは、ジョセフ・スミスが人種的な系統について特定の見解を受け入れていた一方で、イライジャ・エイベルは「預言者スミスの指示の下で」セブンティに聖任されたと主張しました。

    ブッシュは、スティーブン・タガートが報告した、スミスがその方針の立案者だったことを示唆する証拠を軽視する一方で、Brigham Youngとその後継者たちの時代に起こった広範な教義上の声明や方針の実施を強調しました。

  • 1972年9月26日、ジョン・キーヒーは、リー大管長が次のように述べたと報告しました。「私たちは神の正義を信じなければなりません。……黒人は完全な地位を得ることになります。私たちはただその時を待っているのです。」

    7月、リー大管長が教会の1969年の公式声明を引用し、「神の永遠の計画の中のいつか、黒人は神権を授けられる」と述べたと報じられました。

  • 元教会歴史家のレナード・J・アリントンは、リー大管長の親しい友人から、預言者が「神殿の上の部屋で3日3晩断食したが、……彼が受けた唯一の答えは『まだその時ではない』だった」と聞いたそうです。

  • エドワード・L・キンボールは、神権禁止の解除について予感を抱いていた何人かの人々の証言を紹介しました。たとえば、

    1976年、ノースカロライナ州グリーンズボロ・ステークの高等評議員であった阿部藤夫監督は、ある晩遅くにノックの音を聞きました。玄関先に立っていたのは、黒人の会員ジョセフ・フリーマンと妻のイサペラで、薬が効かない高熱を出していた1歳の息子アレクサンダーを抱いていました。フリーマン兄弟がその子を抱く中、阿部監督は祝福を授けました。途中で、彼はその子がいつか神権を受け、教会のために伝道に出ることになると告げるよう強く感じました。

    キンボールの記録にある別の例には、次のように書かれています。

    黒人の大学生メアリー・フランシス・スターローグソンは、1975年にバプテスマを受けた shortly after、サウスダコタ州のセミナリーの教師から、彼女が伝道部で奉仕することになると告げる祝福を受けました。…1977年に家長の祝福を受けたとき、家長ロドニー・キンボール(スペンサーのいとこの息子)はこう言いました。「この祝福の中で今この時点では語られていないことで、あなたが強く望んでいることがあるなら、それをあなたの祝福の裏に書きなさい。そうすれば、あなたの忠実さ次第で、それは拘束力を持つようになると強く感じています」。…彼女は最初の黒人女性宣教師になりました。

    さらに、ヘルヴェシオ・マルティンスとルダー・マルティンス、そしてその息子マーカスは、生きている間に神権と神殿の祝福を受けることを約束する家長の祝福を受けました。

  • 1973年12月30日の日記の記述で、スペンサー・W・キンボールは教会の大管長としての自分の聖任について次のように書いています。

    それから私たちは中央の椅子を囲み、私は座って、エズラ・タフト・ベンソン・エルダーによって聖任されて聖別され、兄弟たち全員が私の頭の上に手を置きました。
  • 教会会長としての聖任の後に行われた記者会見で、キンボール大管長は次のように述べました。

    [私はそれについて]ずいぶん考え、ずいぶん祈ってきました。彼らに神権が与えられる日が来るかもしれませんが、その日はまだ来ていません。その日が来るなら、それは啓示の問題になるでしょう。重要な方針を変える前には、主からの啓示によらなければなりません。しかし、私たちは啓示を信じています。私たちは、主からまださらに多くのことが示されると信じています。 . . . 私たちは、御父が与えてくださるあらゆる示唆、御父が与えてくださるあらゆる指示、変化への望みを示すあらゆる啓示に対して、心を開いています。
  • マイアミ・ニューズは次のように報じました。

    ある黒人の青年が、黒人を差別する教会の方針のために、モルモン教会が運営するボーイスカウト隊で指導的な役職に就くことを拒まれたと、NAACPは昨日報告しました。… 教会のスポークスマンは先週、「スカウティングに関する教会の方針の一つは、執事定員会の会長が上級班長も兼ねるというものです。教会員であるかどうかにかかわらず、スカウト隊の他のどの隊員もその役職には就きません」と認めました。

    その出来事が報じられてから数日後、ニューヨーク・タイムズは、NAACPがスカウト組織を相手取って訴訟を起こす意向であると報じました。NAACPは次のように述べたと報じられました。

    「私たちは、黒人を神権から排除するという末日聖徒イエス・キリスト教会の教義を維持する法的権利があることを、きわめて不本意ながら認めますが、その教義が教会の世俗的な活動に表れるときには憤りを覚えます。

    当初、ボーイスカウト側は却下を求めました。

  • 1974年11月7日、Salt Lake Tribuneは、この訴訟の当事者間で合意に達したと報じました。関係した団体は、「人種または肌の色を理由として、いかなるスカウトに対しても、役職やサービス、特権および利益への参加を差し控えたり、拒否したり、差し控えようとしたり[sic]、拒否したり、奪ったり、あるいはその他の形でその権利を妨げたりするいかなる方針、慣行、慣習、または用法も維持しない」としました。

  • ジェームズ・R・クラークの多巻本第一大管長会のメッセージの第6巻は、1935年から1951年までの期間を扱っています。禁止に関する第一大管長会の声明には1947年、1949年、1951年に異なる版が出されましたが、そのどれも教会の公式出版物を通じて公開されず、クラークの編さんにも収録されませんでした。

    こうした省略は、ジェームズ・R・クラークが1964年に教会指導者たちから受けた、シリーズのそれ以前の巻では、ほかのテーマ(たとえば一夫多妻制)に関する論争のあるメッセージについて説明を加えるか省くようにという助言と一致している可能性があります。

  • サンパウロエリア大会の2日目に、スペンサー・W・キンボール大管長は次のように発表しました。

    皆さんと全世界に、……南アメリカというこの地に主の17番目の神殿を建設し、その場所がブラジルのサンパウロになることをお知らせできることを、私たちは大変うれしく思います。
  • 使徒リグランド・リチャーズは、ブラジルに黒人が多く住んでいることを踏まえ、サンパウロ神殿の発表後に教会が直面したジレンマについて話しました。

    ブラジルでは、住民の間に黒人の血が非常に多く入っているので、. . . 黒人の血が入っていない指導者を見つけるのが難しいのです。. . . しかも、私たちはそこでちょうど神殿を建てたところです。10月に奉献される予定です。 黒人の血が入っている人たちは皆、その神殿を建てるための資金集めをしてきました。しかも、私たちが変えなければ、その人たちはそれを使うことさえできません。
  • ベーカーズフィールド・カリフォルニアン紙は、ダグラス・A・ウォレスについて、「彼は長い間、教会の黒人に対する偏見に悩まされており、それに異議を唱える時が来たと感じていた」と報じました。

    その新聞はまた、ステークの広報責任者ロバート・E・マッギーが「その聖任は無効でした」と述べたことも伝えました。

    教会で定められている手続きでは、教会の管理者から承認が与えられ、候補者の名前が承認のためにステークまたはワードの神権会員に提出されるまでは、その人は神権またはその中のいかなる職にも聖任されません。

    その後、The New York Timesは、ウォレスが集会を妨害すると脅したため、1976年10月の総大会への出席を禁じられたとする記事を掲載しました。

  • ジェネシス・グループの第二顧問であるジョセフ・フリーマンは、ダグラス・A・ウォレスが教会の許可なく黒人会員に神権を授けた後、多くの会員がそのグループを去ったと報告しました。彼は次のように書いています。

    1977年12月に初めてクリスマスパーティーに参加したとき、メンバーはほんの数人しかいませんでした。というのも、そのグループはその少し前に深刻な分裂を経験したばかりだったからです。
  • ブルース・R・マッコンキー・エルダーによると、使徒たちはこの موضوعについて「何週間、何か月にもわたって、何度も長時間にわたり」話し合いました。

    レナード・J・アリントンは、1977年6月にこの禁止措置の影響について自分の見解を述べるよう招かれた人々の中に、パッカー、モンソン、マッコンキーの各使徒がいたと述べています。これらの覚書について、マッコンキー使徒は次のように書いています。

    ここ数か月の間に二度、キンボール大管長は、希望する十二使徒定員会の会員に対し、すべての人種と肌の色のふさわしい会員に神権を与えることが適切かどうかについて、自分の個人的な見解と教義上の説明を記した書面を提出するよう求めました。この招きに応じて、大管長に文書を送った兄弟たちもいました。
  • 1978年6月9日、教会歴史家レナード・アリントンは次のように報告しました。

    エルダー・ニール・マックスウェルは、内密に、ジョセフ・フィールディング・スミスの「黒人はすばらしい人々だ」という言葉を見つけられるかどうか私に電話で尋ねました。…これは、主席計画担当者としてのエルダー・マックスウェルが、この問題についてキンボール大管長に提出する覚書に積極的に取り組んでおり、見つけられる限りのあらゆる証拠を求めていたことを示唆しています。
  • エドワード・キンボールは、キンボール大管長が神殿へ「来る日も来る日も……深い厳粛さと真剣さをもって歩いて行き、神殿の上階の部屋で一人で過ごしていた」と報告しています。

  • エドワード・キンボールは、キンボール大管長が「十二使徒と一人ずつ」相談していた間、しばしば神殿が静まり返った時間帯に、至聖所で何時間も一人で祈りと黙想を続けていた、と書いています。

    リグランド・リチャーズも、この時期にキンボール大管長が十二使徒一人ひとりと個別に話をしたというエドワード・L・キンボールの記述を確認しました。

  • 神権と神殿の制限について話し合いが行われた第一大管長会と十二使徒定員会の合同会議の後、ボイド・K・パッカー・エルダーはレグランド・リチャーズ・エルダーの言葉を次のように引用しました。

    「兄弟たち、あなたがたにお話ししたいことがあります。少し前に、そこのオルガンの上に一人の男性が座っているのが見えましたが、その人はまさにあのような姿でした。」(彼は、その部屋に掛けられているウィルフォード・ウッドラフ大管長の肖像画の方を身ぶりで示しました。)そしてこう付け加えました。「私は、今ここにいるあなたがた兄弟のだれを見るのと同じくらいはっきりと、その人を見ました。」 この経験について、リチャーズ・エルダーはこう述べています。「彼は白いスーツを着て、ひじ掛けいすに座っていました。そのとき私は、私に彼を見る特権が与えられた理由は、おそらく、地上にいたウッドラフ大管長を実際に見たことがある者が、その場で私だけだったからだと思いました。私は彼がソルトレーク神殿を奉献するのを聞いたことがあり、また、彼が亡くなる前にソルトレーク・タバナクルで行った最後の説教も聞いたことがありました。」

    その場に同席していたフランシス・M・ギボンズも、多妻結婚の問題に同様に苦闘し、それが啓示によって解決されたウッドラフ大管長の例があったため、この出現の「重要性と時期」は明らかだったと述べました。

  • 十二使徒定員会の会員のうち10人が、その会合と祈りに出席していました。中にはこの方針の変更に声を上げて反対していた人もいましたが、全員がこの決定を啓示の結果だと受け止めていました。たとえば、シェリ・L・デューは、エルダー・ベンソンが日記に次のように書いていたと記しています。

    祈りの後、私たちは、私がこれまでに経験したことのないほど甘美な一致と確信の御霊を感じました。 . . . 私たちの胸は、自分たちが下した決定の正しさに燃えていました。

    1978年6月1日に行われた、その啓示を確認する祈りについて後に語った際、キンボール大管長は次のように述べました。

    そこで私は圧倒されるような霊を感じました。それは、それまで私たちが経験したことのないほどの一致が、激しく押し寄せる洪水のように感じられるものでした。
  • 会合と祈りを欠席していた二人、すなわちエルダー・マーク・E・ピーターセンとエルダー・デルバート・L・ステープリーは、この禁止措置の強硬な擁護者として知られていました。

    ペーターセン長老は南アメリカで割り当てを受けており、啓示が読み聞かされた後、遠隔でそれを承認しました。彼は神権に関する啓示の後も、異人種間結婚についての以前からの懸念を長く持ち続けていましたが、彼の伝記作家は、彼が次のように語ったと記しています。「主から新しい啓示が来たことを知って、私は大変うれしく思いました。……電話で私はキンボール大管長に、私はその啓示と大管長の両方を全面的に支持すると伝えました。」

    エドワード・L・キンボールによれば、入院中で、その6週間後に亡くなったステープリー・エルダーは、第一大管長会の3人全員の訪問に対して、「この件では、わたしは同胞たちと共にいます」と答えました。

  • 現在では公式宣言第2として知られているこの宣言には、「教会のふさわしいすべての男性会員は、人種や肌の色に関係なく神権に聖任されることができる」と述べられていました。

  • 1978年9月16日の夢の中で、当時サンデースクール中央会長を務めていたラッセル・M・ネルソンは、自分が「キンボール大管長が受けた啓示とその後に取られた行動は、もしリー大管長が預言者として生きていたなら受け、行っていたであろうものとまったく同じだ」と告げられたと述べています。リー大管長は、「主は、その時にだれが預言者であるかにかかわらず、生ける預言者に御自分の御心をお与えになる。実際に主が御自分の教会を導いておられるのだ」と叫びました。

  • 神権の制限という考え方に関連する最も初期の歴史記録は、1842年にジョセフ・スミスがモルモン書を翻訳した時のものです。そこでは、ハムを通してカナンと共有していたファラオの系統に一見関連している神権の制限が述べられています(アブラハム1:26–27)。しかし、ジョセフや同時代の人々が、彼の生前に神権の制限の根拠としてこの聖典を用いたという記録はありません。

    1852年、Brigham Youngは黒人の聖徒に対する神権制限に関して、最初の公的な発表を行いました。

    1978年6月、スペンサー・W・キンボール大管長は、神権の制限を終わらせる啓示を受けました。

  • これらの例外の中には、指導者や一般会員が承知したうえで起きたものもありました。

    例えば、1966年に2人の宣教師が述べたところによると、エクアドルのギジェルモ・クエスタという男性は、あらゆる報告ではアフリカ系の祖先を持つように見えたにもかかわらず、スペンサー・W・キンボールによって神権に聖任されました。クエスタ兄弟との面接の後、スペンサー・W・キンボール長老は宣教師たちにこう言いました。「この兄弟が神権を受けることを主が望んでおられると、私は確信しています。」

    また別の例では、ローウェル・L・ベニオンによると、デビッド・O・マッケイ大管長は、黒人の祖先を持つと考えられていた2人のきょうだいが神殿の祝福を受けることを承認したと述べました。

    ほかの例外は、エドゥアルド・コンティエリのケースのように、知らないうちに起きていました。彼は神権に聖任され、支部会長として奉仕していました。1963年、コンティエリは「自分に[アフリカ系の]血統があることを示す文書」を見つけ、神権を行使しないよう求められました。スペンサー・W・キンボールはゴードン・B・ヒンクレーに宛てて、「自分が黒人系だとわかってから、彼は苦々しさを持たずにこの件を受け入れたようです」と書いています。

  • この制限は、ときには非常に厳しく理解され、「アフリカ系の血」が「一滴」でも入っていれば、その人は資格がないと解釈されることもありました。Wilford Woodruffによると、Brigham Youngは1852年1月16日に次のように述べました。

    カインの子孫の血が一滴でも入っている者は、だれも神権を持つことができない。

    一方で、解釈がそれほど厳しくないこともありました。たとえば、1954年には、デビッド・O・マッケイ大管長が、男性が神権を受ける前に自分の系譜がアフリカにさかのぼるかどうかを追跡するという要件を取り除いたと報告されました。これによって、アフリカ系の祖先を持ちながら外見上は白人に見える一部の男性も、神権と神殿の祝福を受けられるようになった可能性があります。

  • フィジー人は1924年以降、神権と神殿の制限の対象となっていましたが、1954年にその制限は解除されました。この変更は、検討と祈りの後にデビッド・O・マッケイ大管長によって承認され、その後彼は「[フィジー人]がネグロイド人種ではないことを示す証拠がある」と結論づけました。

  • 例えば、教会指導者たちは異人種間の結婚をしばしば非難し、公民権運動の正当性に反対を表明し、黒人に対して蔑視的な言葉を使っていました。

    教会指導者たちは、人種差別的な言葉を使い、福音の原則を教えるために人種差別的な話も用いました。

  • 教会における人種的偏見についての研究で、末日聖徒の社会学者アーマンド・L・マウスは、〜であることを見いだしました。

    彼らの回答の大部分において、モルモンは「原理主義」諸派やセクトよりも、むしろ「穏健な」教派(長老派、会衆派、米国聖公会など)に似ていました。もちろん、黒人に対して否定的な世俗的態度を持つ傾向については、モルモンの間にも違いがありました。しかし、その違いは正統派と非正統派のモルモンの間にあるというより、都市出身という要因を統制すると、正統派モルモンは正統派の同じ宗教仲間と比べて、黒人に対してより反感を持っているわけではなく、むしろその傾向はより弱い可能性さえあることを示しています。
  • Ohio州シンシナティで、レン・ホープとメアリー・ホープは日曜日の集会に出席しないよう求められ、自宅を訪問されました。

    支部会長は彼らにこう言ったと伝えられています。

    できることは何でもします。私たちは、それが正しくないことを知っていますが、人々の感情については、ただ受け入れるしかありません。私たちは毎月特別にここへ来て、あなたがたに聖餐を持って行き、ご自宅で教会の礼拝を行います。できる限り、あらゆる方法であなたがたを支えます。ただ、この状況では、あなたがたに支部で務めてもらうことはできません。

    また、1942年には、第一大管長会が、当時ワシントンD.C.のステーク会長だったエズラ・タフト・ベンソンに対し、黒人会員と白人会員が一緒に礼拝できるようにする一方で、地元の会衆の感情にも配慮するよう指示しました。

    また1964年には、デルバート・L・ステープリーがジョージ・W・ロムニー知事に、公民権法案に反対するよう求めました。それは、白人が「制限された白人地区に彼ら[黒人のアメリカ人]を受け入れることを強制される」ことから守るためでした。

  • 1950年代のファイヤーサイドでの話の中で、アブナー・ハウエルは、数年前にエルダー・スティーブン・L・リチャーズから、教会の黒人会員の活動を活発にするのを手伝ってほしいと頼まれ、別々の会衆を設ける可能性も示唆されたことを振り返りました。

    彼は、「もし彼らを戻って来させることができれば、……もし彼らが私たちと交わりたくないのであれば、ここでスペイン系の人々にしたのと同じように、彼ら専用の教会を建てます」と言っています。
  • 第一大管長会が発行した書簡には、次のように書かれていました。

    わたしたちは、黒人も、他の人種の人々と同様に、社会の一員として憲法上の権利を十分に持つべきだと信じており、教会の会員がどこにいても、市民としてこれらの権利が侵されないよう自分の役割を果たすことを願っています。公民権に関しては、すべての市民が法の下で平等な機会と保護を受けなければなりません。
  • 例えば、使徒デルバート・L・ステイプリーはミシガン州知事ジョージ・W・ロムニーに次のように助言しました。

    公民権についてのあなたの話を聞いて、とても心配になりました。……そこで、一言お伝えしようと思いました――教会での公式な立場としてではなく、個人的な友人としてです。教会を代表して話せるのはマッケイ大管長だけです。……私は、黒人をその立場において認め、教育や雇用、また人間社会へのどのような貢献であれ、そのためのあらゆる機会、そして政府の保護と恩恵を与えることについて、異論はありません。…… 私は、黒人が上に述べた配慮を受ける権利があることには全面的に同意します。しかし、白人と同等の社会的恩恵すべてや、白人との異人種間結婚の特権までは認めませんし、また白人が制限された白人区域に彼らを受け入れるよう強制されるべきでもありません。
  • 例えば、1944年8月30日、J・ルーベン・クラークは日記に次のように記しています(強調は原文のままです)。

    ヴァージル・スミス――(1)ステーク会長会の一員と数人の監督が、彼のステーク内で黒人の定住を制限し管理することを目的とする市民団体に、個人として加わることの適切さについて尋ねられました。私は異存はないと答えました。

    私的に出版されたパンフレットの中で、教会員のアーサー・リチャードソンは次のように書きました。

    白人と黒人の人種を統合するための計画的なプログラムに、何百万ドルもの資金と多大な時間と労力が注ぎ込まれています。……その結果、何百万人ものアメリカ人が誤った方向に導かれており、彼らを欺くための計画的な運動は、末日聖徒イエス・キリスト教会の一部の会員にも影響を与えずにはいられません。そうであることは、私自身の経験から知っています。私は多くの講演の依頼を受けています。時にはこの विषयについて話してきました。私が見るところ、教会の年配の会員は人種隔離に共感的である一方、若い会員は統合に共感的です。
  • 末日聖徒の研究者トーマス・G・アレクサンダーは、1978年に神権に関する啓示があった後も、「ユタ州における差別は周辺の州とほぼ同じ水準にとどまっていた」と報告しました。

  • 末日聖徒の歴史家トーマス・G・アレクサンダーによると、多くの不動産会社は、そうした制限が1948年に違法になるまで、契約に「白人のみ」の聖約を盛り込んでいました。それにもかかわらず、オグデンのロリン・ファー公園やファーミントンのラグーンを含む公営・私営のプールは、第二次世界大戦後まで人種分離が続き、アフリカ系アメリカ人は利用できませんでした。

  • 末日聖徒の歴史家トーマス・G・アレクサンダーは、教会所有のホテル・ユタを含むSalt Lake Cityのホテルにおける人種隔離の例として、次のようなものを挙げています。

    ユタを訪れたアフリカ系アメリカ人の芸能人や著名人は、ホテルの部屋を見つけるのに苦労しました。……1937年には、Salt Lake Cityのホテルはメトロポリタン歌劇場のコントラルト歌手マリアン・アンダーソンの宿泊を断りました。1938年には、ホテル・ユタは、彼女が貨物用エレベーターに乗ることに同意した後でようやく部屋を貸しました。1948年と1951年には状況が大きく変わり、アンダーソンが再び訪れたとき、ホテル・ユタは何の問題もなく彼女を泊めました。さらに、彼女は1948年にLDSのSalt Lake タバナクルで、立ち見が出るほどの聴衆に向けて歌いました。
  • 1896年、連邦最高裁判所のプレッシー対ファーガソン判決により、多くの公共の場所で法的な人種隔離が可能になりました。

    1960年代半ば、公民権法が可決された後、ユタ州の人種隔離はより急速に弱まっていきました。末日聖徒の歴史家トーマス・G・アレクサンダーによると:

    1965年、カルビン・ランプトンの政権下で、州はすべての人を平等に扱うことを義務づける公民権法の制定を始めました。
  • 1941年、陸軍軍医総監は、社会的な圧力を理由に、「白人と黒人の血液を無差別に混ぜる」べきではないとジェームズ・J・マクロイ陸軍次官補に助言しました。

    また1941年には、アメリカ赤十字社の理事G・キャンビー・ロビンソンが、「これまでのところ、赤十字は白人の提供者からの血漿だけを供給するよう求められてきた」という秘密の内部声明を出しました。

    1950年まで、アメリカ赤十字社は血液を人種別に表示し、分けて扱っていました。

  • 1951年、Salt Lake Telegram は、血に人種的な性質があるという考えを退ける、配信コラムニストのウィリアム・ブレイディの報告を掲載しました。

    その話全体がばかげています。ほかのどの人種の人であっても、その人の血に黒人の血が混じっているかどうかを見分けられる検査はありません。ある血液のサンプルが、モンゴル人、コーカサス人、黒人、マレー人、アメリカ人(インディアン)の血なのか、あるいはその血管にこれらのうち二つ以上の血が混じっている人のものなのかを、文章や検査によって見分けることのできる人はいません。

    2年後の1953年、当時ユタ州選出の連邦上院議員だったウォレス・R・ベネットは、次のように述べました。

    L.D.S.病院は血液銀行に黒人の血液を受け入れていますが、それは黒人にだけ供給されます。しかし、同じような方針は、カトリック系のホーリー・クロス病院でも取られています。実際、医学的にはそのような区別に実質的な根拠がないことが知られているにもかかわらず、全米の病院では慣例的に、「白人用」または「黒人用」と表示された血液が送受されています。
  • J・ルーベン・クラーク管長は、「この教会の人々の血統の純粋さを守る」ために、血液銀行での人種隔離を支持しました。

    この懸念は、アフリカ系の「血」が「一滴」でも入ると神権を受ける資格が無効になるという考えから生じた可能性があります。

    この考えは、Wilford Woodruffが記録した1852年1月から2月のBrigham Youngの説教記録に由来しています。しかし、公式の記録係だったGeorge Wattは、そのような表現を含めませんでした。

  • 例えば、南アフリカの宣教師ローレンス・J・マッキーは、1968年に自分は黒人に対して「布教することを許されなかった」と述べています。

    マッキーを情報源として引用し、末日聖徒の歴史家リチャード・E・ターレー・ジュニアとジェフリー・G・キャノンは、「南アフリカの黒人に伝道すること」を禁じる措置は「伝道部の方針」だったと述べています。

  • 1974年の計画会議では、教会大使デビッド・M・ケネディとスペンサー・W・キンボールは、宣教師活動の展開からサハラ以南のアフリカを除外しました。この方針は1978年に覆されました。

    デイビッド・M・ケネディの娘バーバラ・ケネディ・ローは、父がキンボール大管長と会ったときについて、次のような話をしています。

    次に彼が世界のどこへ行く必要があるかを話し合うたびに、ケネディ兄弟はオフィスにある大きな地球儀のアフリカ大陸の上に手を置いて、「でも、神権のためにアフリカは開けられないことは分かっていますよね」と言っていました。1978年に神権に関する啓示が与えられた数日後、キンボール大管長とケネディ兄弟がそのオフィスの前を通りかかったとき、預言者は「もうアフリカから手を離していいですよ」と言いました。
  • たとえば、1931年にジョセフ・フィールディング・スミスは、「エノクは、黒い皮膚を持っていたと彼が理解していたカナンの民を除いて、至る所のすべての人々に福音を教えた」と書きました。

    1930年代から1970年代にかけて、ブラジルで奉仕していた宣教師たちは、「カインの系統」、つまり黒人の祖先を持つ人々に積極的に福音を教えることを控えるよう勧められていました。

    1947年、第一大管長会はカリフォルニアのステーク会長に対し、「黒人に対して改宗活動を行うための特別な努力は、これまで一度もなされていません」と述べました。

    1958年に、ブルース・R・マッコンキーはこう書きました。「救いの福音のメッセージは、彼らに対して積極的には伝えられていない。しかし、時には黒人が真理を探し求め、教会に加わり、義にかなった生活によって天の最上の王国の相続人となることもある。」

  • 1947年、第一大管長会は、末日聖徒の社会学者ロウリー・ネルソンに送った手紙の中で、神権禁止の説明として前世での存在を挙げました。

    神の子どもたちの中には、この世が形作られる前に、より高い立場に割り当てられた者もいました。 . . . あなたの見解は、私たちの霊の前世、天における反逆、そしてこの世に生まれることや私たちがどのような条件や利点のもとに生まれるかが、それ以前の生に関係しているという教義に関する、主の啓示を見失っているように思われます。

    また1947年には、第一大管長会の顧問デビッド・O・マッケイが、これとよく似た見解を述べました。

    人がまだ知らない何らかの永遠の法則の働きによって、霊は自分にふさわしい親のもとに生まれてきます。ある者はオーストラリアのブッシュマンとして、ある者はソロモン諸島の人として、ある者はアメリカ人として、ヨーロッパ人として、アジア人として、などです。そこには、地上に住むさまざまな人種の親に見られる、知性や霊性のさまざまな程度が伴っています。……神権は指導者として選ばれた者たちに与えられました。それを受けることができない者も多くいましたが、彼らも、永遠の計画の中でいつかその栄誉に達することが自分たちにも可能であることを知っていました。
  • エルダー・マッコンキーはモルモン・ドクトリンの中で次のように書きました。

    黒人の現在の立場は、ただひとえに前世の存在という考えに基づいています。すべての人種や民族と同じように、彼は主の前での長い前世の試しの結果として、自分に値するものをこの世で受けています。その原則は、すべての人がこの世での行いに応じて裁かれ、来世でそれぞれ異なる立場を与えられるときに適用されるものと同じです。
  • 例えば1961年に、マッケイ大管長は神権の制限をもっぱらアブラハム書に基づくものだとしました。

    パロが義にかなった人であったにもかかわらず、神権を与えられなかったのは、彼が、血管に有色の血が流れていたエジプタスの子孫だったからです。それが唯一の理由です。それはそのことに基づいています。

    そして1963年ごろ、エルダー・ジョセフ・フィールディング・スミスはユージン・イングランドに、「前世での存在」という理屈は自分には「筋が通っている」と思えたと語りましたが、同時にこうも言いました。

    「黒人が前世のために神権を与えられていないと、あなたが信じる必要はありません。……なぜなら、それは聖典にははっきりとは書かれていないからです。そして、私はその件について何の啓示も受けていません。」
  • 1967年にこの禁止について論じた際、エルダー・デルバート・L・ステイプリーは、前世での存在による説明を次のように述べました。

    主には、アブラハム、イサク、ヤコブの血統を通じて出た選ばれた民がいることを、あなたは知っています。……イスラエルの子らは、カインとハムの子孫だけでなく、ほかの諸国民からも妻を迎えることを主から禁じられていました。……神ご自身が黒人にその呪いを課されたのであり、その呪いを解くかどうかは人ではなく神にかかっています。

    その後のモルモン・ドクトリンの版でも、黒人は前世で「勇敢さが劣っていた」という考えが受け継がれました。「黒人」に関する項目の本文が神権に関する啓示に置き換えられたのは、修正版の第2版が出た1979年になってからでした。

  • デビッド・O・マッケイ大管長による以前の声明を引用しつつ、第一大管長会を代表してその顧問たちが署名した1969年の声明は、この禁止の根拠として前世での存在に言及していました。

    生ける預言者であるデビッド・O・マッケイ大管長は、次のように述べています。「教会が黒人に対して行っているように見える差別は、人間に始まるものではなく、神とともに初めからあるものである。……啓示は、この計画が人間の死すべき存在よりも前からあり、人間の前世の状態にまでさかのぼることを保証している。」 マッケイ大管長はまた、次のようにも述べています。「神の永遠の計画のいつかの時点で、黒人には神権を持つ権利が与えられるでしょう。」 この件について、わたしたちが預言者として支持する人に神がその御心を明らかにされるまでは、わたしたちはその同じ御心に従う義務があります。神権は、だれであれある人に授けられるとき、それは人ではなく神からの祝福として与えられるのです。
  • 新聞は、テキサス大学エルパソ校(UTEP)の黒人アスリートのグループが、BYUとの陸上競技大会をボイコットしたと報じました。

    理事会へのメモの中で、BYUの学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、次の大学の個人や関係者から抗議があったと報告しました。

    • San Jose State University

    • University of New Mexico

    • California State College-Hayward

    • Stanford University

    • Arizona State University

    • University of Wyoming

  • 1969年10月29日から11月5日に特別なBYU理事会の会合が延期されたため、ウィルキンソンは、最近更新されたBYUの入学方針と、BYUに対する最近の抗議についての自分の声明を、教会指導者による確認と同意を得ないままWACに提出せざるを得ませんでした。その声明では、現在のBYUの入学方針は「肌の色を理由に、誰であれBYUに通うことを何ら制限していない」と述べられていました。

    さらにこう付け加えています。

    確かに、私たちのキャンパスには黒人の学生はそれほど多くありません。しかし、それは彼ら自身の判断の結果であって、私たちの方針によるものではありません。私たちの知る限り、BYUのある郡全体で黒人の家族は1家族しかいません。これは、これらの黒人学生がBYUに来ないという判断をするうえで、重要な影響要因であるように見えます。これまでに来た人たちも、現在ここにいる人たちも、自分たちに対して人種差別が行われているとは一度も示唆していません。
  • 1970年に、BYUはMinorities, Civil Rights, BYU, and You:というタイトルの4ページの小冊子を出版しました。

    この情報が、公民権と黒人に関するBYUおよび教会の立場を説明するうえで、あなたのお役に立つことを願っています。私たちの立場を説明する際には、あらゆる人種や宗教の人々に対して親しみをもって接することをお勧めします。

    1969年12月3日、BYU学長アーネスト・L・ウィルキンソンは、エルダー・デルバート・L・ステイプリーとの次の会話について述べました。ステイプリーは「『Y』で黒人を勧誘すべきではないと自分は思う、と言って私を驚かせました。私は彼に、その反対の決定が、彼が出席していなかった理事会の前回の会合で下されていたと伝えました。」

  • アリゾナ大学の「事実調査委員会」は、「黒人の管理職者とブラック・スチューデント・ユニオンの代表を含んで」いましたが、その結論の一つは次のとおりでした。

    委員会の結論は、教会の慣行に免罪符を与えるものではありませんでしたが、BYUが他のどの大学よりも人種差別的だというわけではない、というものでした。 その結果、委員会はウェスタン・アスレチック・カンファレンス加盟校に対し、BYUを標的とした今後の抗議活動や妨害行為を中止するよう求めました。

    委員会はまた、BYUについて、「黒人を別個の存在としてではなく、私たちの社会に不可欠な一部として、その文化や特質に学生が触れるために、さらに多くをしてこなかったことは重大な誤りだった」と勧告し、いくつかの建設的な提案も行いました。

  • 連邦政府の地域公民権局長であったホリス・B・バッハはBYUを調査し、訪問と話し合いの後、それが公民権法を順守していると判断しました。

  • その手紙にはまた、神権禁止が実施されていた理由について、「それは神には知られていると私たちは信じていますが、神はそれを人に十分には明らかにしておられません」という記述もありました。

    1969年12月15日付の元の手紙は教会指導者にだけ送られましたが、その後1970年1月10日にChurch Newsに掲載されました。

  • 1969年11月13日の第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、マッケイ大管長の健康上の理由により、今後はタナー管長とブラウン管長が「すべての書簡」に関して第一大管長会を代表して署名することで合意しました。

  • Salt Lake Tribuneは次のように報じました。

    アフリカ系の血統を持つ黒人にモルモン教会が神権を与えていないことは、「それほど遠くない将来に変わるでしょう」と、末日聖徒イエス・キリスト教会の最高幹部の一人であるヒュー・B・ブラウンは述べました。
  • マッケイ大管長の健康状態が急速に悪化し、その後1月に預言者が亡くなったため、第一大管長会でそれ以上の話し合いが行われなかった可能性があります。

    1969年11月13日、第一大管長会と十二使徒定員会がデビッド・O・マッケイ大管長の健康悪化について話し合っていた際、リー・エルダーは次のように述べました。

    新しい方針が決まる前の通常の事柄については、大管長が行動するまでは、第一顧問や第二顧問、あるいは両顧問を含め、わたしたちのだれにも、主が教会の大管長をその務めから解かれるまでは、大管長抜きで新しい方針や新たな変更を決めることはできない、というのが彼の考えでした。彼は、教会の大管長の地位を守るという非常に神聖な責任がわたしたちにはある、と述べました。

    この発言に対する異議は、会議の議事録には記録されていません。しかし、ヒュー・B・ブラウンの義理の息子であるエドワード・ファーミッジは、ブラウンがリーから圧力を受け、神権の禁止は「教義に基づいている」とする声明に、ほかの定員会のメンバーとともに署名したと報告しました。

  • 2014年、トーマス・S・モンソン大管長は、ジェネシス・グループの組織化について次のように回想しました。

    ジェネシス・グループが1971年10月19日に組織されたとき、ラフィン・ブリッジフォースが会長に選ばれ、ダリウス・グレイとユージン・オアがその顧問になりました。エルダー・ゴードン・B・ヒンクレー、エルダー・ボイド・K・パッカー、そして私には、彼らを聖任する特権がありました。 私はときどきジェネシス・グループの指導者たちと会うのを楽しみにしており、いつも彼らに感銘を受けていました。私は、いつか彼らが神権を持てるようになる日を彼らが切望しているのを見ており、その希望を彼らと共にしていました。
  • 2021年10月23日、グループのメンバーと友人たちは50周年を記念してソルトレーク・タバナクルに集まり、そこで元グループ会長のダリウス・グレイは、現在の彼らの伝道部の焦点について次のように述べました。

    一般に、黒人の末日聖徒は、地理的に散らばっていて、社会的な支えもほとんどない個人の寄せ集めです。このような状況では、ほかの黒人と定期的に親交を深めることが有益であることが示されています。似た背景や経験を持つ人たちと福音を再確認することで、孤立感に苦しむ兄弟姉妹は安心を見いだし、傷つきやすい心が慰められます。
  • ラマー・ウィリアムズは、そのグループの初代会長であるラフィン・ブリッジフォースがその名前を選んだ理由について、次のように報告しています。

    「ほら、私はそれをジェネシス支部と名づけることにしました。『ジェネシス』は始まりという意味だからです。これは、教会の有色人種の人々の間で認められた働きの始まりなのです。」
  • 1949年、第一大管長会は個人的な書簡のやり取りの中で、この禁止についての標準化された説明を使い始めました。Brigham YoungとWilford Woodruffの発言を含めていることに加えて、どちらの版にも次の段落が共通して含まれており、この禁止を「教会の教義」と位置づけています。

    黒人に関する教会の態度は、これまで常にそうであったまま変わっていません。これは方針を表明したものではなく、主からの直接の戒めであり、その上に教会の組織された当初からの教義が築かれています。つまり、黒人は教会の会員になることはできますが、現時点では神権を受ける資格はない、ということです。
  • スターリング・M・マクマリンは、1954年3月にマッケイ大管長がこう述べたと回想しています。

    私たちは、黒人に神権を授けないことには聖文上の先例があると信じていますが、彼らも最終的にはそれを受けるようになります。

    また、いくつかの資料によると、マッケイ大管長は神権の禁止を解除できるようにとの啓示を求めて繰り返し祈りましたが、肯定的な答えは受けませんでした。

  • 教会の大管長として聖任された後の記者会見で、スペンサー・W・キンボールは次のように述べました。

    変化があるかどうかは分かりませんが、ある可能性はあります。私たちは天の御父の指示の下にあり、これは私の方針でも教会の方針でもありません。これを定めた主の方針であり、私の知るかぎり変更はありませんが、主がいつか変更を望まれるなら、私たちは主の啓示に従います。
  • 第一大管長会が末日聖徒の社会学者ローリー・ネルソンに宛てて署名した手紙の中で、彼らは次のように述べています。

    神の子どもたちの中には、この世が形作られる前に、より高い立場に割り当てられた者もいました。……あなたの立場は、わたしたちの霊の前世、天における反逆、そしてこの世に生まれることや、わたしたちがどのような条件や特権のもとに生まれるかが、それ以前の生に関係しているという教義に関する主の啓示を見落としているように思われます。預言者ジョセフの時代から今に至るまで、黒人は福音の完全な祝福を受ける資格がないということは、教会の指導者のだれからも一度も疑問視されたことのない教会の教義でした。
  • 改訂された1949年の声明には、教会指導者による引用がさらに2つ追加されました。

    Brigham Young大管長は次のように述べました。「なぜ地上の住民のこれほど多くが黒い皮膚というのろいを受けているのでしょうか。それは、彼らの先祖が聖なる神権の力と神の律法を拒んだからです。彼らは死に至ります。そして、ほかのすべての子らが聖なる神権における祝福を受けたとき、そののろいはカインの子孫から取り除かれます。そうして彼らは立ち上がって神権を持ち、私たちが今受ける資格を持っているすべての祝福を受けるようになります。」 「Wilford Woodruff大管長は次のように述べました。『その時は来ます。そのとき、あの人種は皆、贖われ、私たちが今持っているすべての祝福を持つようになります。』」
  • 1951年版の声明では、示された説明の一部として「わたしたちの前世に関するいくつかの既知の事実」が付け加えられています。

    1. すべての霊が前世において同じ程度の到達に達したわけではありません。 . . . 2. 人はアダムの違反のためではなく、自分自身の罪のために罰を受けます。(第2信仰箇条). . . 3. すべての霊は無垢な状態でこの世に生まれます。人のすべての霊は初めにおいて無垢であり、また神が堕落から人を贖われたので、人は幼い時の状態では再び神の前に無垢な者となりましたか。 . . . 4. 黒人は前世においてエホバに従う者でした。(中立の者は存在しませんでした。)
  • 1963年10月6日、第一大管長会の顧問ヒュー・B・ブラウンは、スターリング・M・マクマリンが起草し、教会会長マッケイが承認した次の声明を読み上げました。

    わたしたちは、教会の内外を問わず、あらゆる場所のすべての人に対し、神のすべての子供たちのために完全な公民的平等を確立することに尽力するよう求めます。これに満たないものは、人類の兄弟愛というわたしたちの高い理想を損ないます。
  • 声明の一部は、その制限が前世の存在に関係していることを示唆していました。

    「教会が黒人に対して差別しているように見えること」は、人間が始めたものではなく、神とともに始まりにまでさかのぼります。……啓示は、この計画が人間の死すべき世での存在に先立つものであり、人間の前世の状態にまでさかのぼることを私たちに示しています。
  • その声明を第一大管長会の名で広めるにあたり、N・エルドン・タナーとヒュー・B・ブラウンは次のように書きました。

    この聖約の時代の初めから、ジョセフ・スミスとその後の歴代の教会会長は皆、黒人は、共通の父の霊の子供であり、また地上の両親であるアダムとエバの子孫ではあるものの、まだ神権を受けることにはなっていないと教えてきました。その理由は、私たちは神が知っておられると信じていますが、神はそれを人に十分には明らかにしてこられませんでした。
  • デビッド・O・マッケイ大管長は重い病気を患っていたため、第一大管長会と十二使徒定員会の会合で、今後はタナー管長とブラウン管長が「すべての書簡」について第一大管長会に代わって署名することが合意されていました。

  • 1978年6月8日の第一大管長会の手紙には、次のように書かれていました。

    ふさわしいすべての男性会員は、人種や肌の色に関係なく、神権に聖任されることができます。
  • 1978年10月23日、キンボール大管長は南アフリカのヨハネスブルグで開かれた伝道部大会で、神権に関する啓示をめぐる出来事について説明しました。以下の書き起こしは、教会が一般公開した音声記録から直接採られたものです。

    私は来る日も来る日も通いました。そして大きな厳粛さと真剣さをもって、神殿の上の階の部屋に一人でいました。そこで私は自分の魂をささげ、計画を進めていくための私たちの努力もささげました。私たちは主がお望みになることをしたいと思っていました。なぜなら、そのことについて主に話していたからです。……そしてついに、私たちは主からの感覚を得ました。主はそれを私たちにとてもはっきり示してくださいました。それが、すべてのふさわしい人々に福音を普遍的なものとするために行うべきことだということでした。
  • 教会歴史家のレナード・J・アリントンは、次のように回想しています。

    1954年にマッケイ大管長によってこの問題を調査するために任命された十二使徒の特別委員会は、その方針には確かな聖文上の根拠がないと結論づけましたが、教会の会員はその撤回を受け入れる準備ができていないとも結論づけました。……個人的に言うと、私はこの使徒たちの調査について少し知っていました。というのも、委員会の一員だったアダム・S・ベニオンが、1954年5月13日にSalt Lake Cityでモルモン・セミナーに向けて行った非公式な話の中で、その取り組みに触れるのを聞いたからです。ベニオンによれば、マッケイは答えを得られないまま主に嘆願し、最終的に、まだ時機が熟していないと結論したとのことでした。
  • 末日聖徒の歴史家グレゴリー・プリンスは次のように述べています。

    あるとき、子どものための教会補助組織であるPrimaryの中央役員会で奉仕していた義理の娘ミルドレッド・カルダーウッド・マッケイは、プライマリーの年代(12歳まで)に白人の子どもたちと一緒に過ごしていた黒人の男の子たちが、12歳になるとアロン神権から除外されることに苦しみを表しました。彼女は「その子たちも聖任できないのですか」と尋ねました。彼は悲しそうに「いいえ」と答えました。彼女は「それなら、新しい啓示の時だと思います」と言いました。彼は「私もそう思います」と答えました。
  • 末日聖徒の歴史家グレゴリー・プリンスは次のように報告しています。

    1960年から1968年までマッケイの事務所で秘書を務めたローラ・ギギ・ティミンズは、彼が神殿で第一大管長会と十二使徒定員会との会合から戻ってきた日のことを回想しています。この موضوعはそのような会合で何度か取り上げられており、そして明らかに個人的な思いを少し打ち明ける形で、彼は応接室にいた秘書たちに、この件について何度か主に尋ねたが、答えは「まだではない」だったと語りました。
  • グレゴリー・プリンスは次のように述べています。

    1953年にマッケイによって召された総権威のマリオン・D・ハンクスは、1960年代後半に、ベトナムで末日聖徒イエス・キリスト教会の軍人たちを訪問する前に、マッケイと話しました。ハンクスは、以前のベトナム訪問で、負傷した黒人の末日聖徒イエス・キリスト教会員の兵士を慰めた出来事を語りました。その話をすると、マッケイは泣き始めました。神権の禁止に言及して、マッケイは「私は何度も何度も何度も祈りましたが、答えはありませんでした」と言いました。
  • 歴史家グレゴリー・プリンスは、1999年に語られたリチャード・ジャクソンの証言を再掲載しました。

    ある日、マッケイ大管長が事務室に入ってこられたのを覚えています。私たちには、大管長がひどく苦しんでいる様子が見て取れました。大管長はこう言いました。「もうたくさんだ! もう二度としない!」だれかが「何をですか」と言いました。すると大管長はこう言いました。「いや、黒人に神権を与えることについて、私は絶えずしつこく迫られている。私は何度も主に尋ねた。最後にそれをしたのは昨夜だった。すると、何のやり取りもなく、この件をもう二度と主に持ち出してはならないと告げられた。時は来るが、それは私の時ではない、この件にはもう触れないように、ということだった。」私たちはみな、もちろん、少しあっけにとられました。これが起こったことは、これまで一度も書かれたことがないと思います。…私はこのことをだれにも話したことがありません。今でも、少し取り乱したような様子で入ってくる大管長の姿が目に浮かびますが、それはマッケイ大管長としては珍しいことでした。大管長はいつも、すべてをしっかり掌握しているように見えました。
  • レナード・J・アリントンは、「リー大管長に近い身元不明の人物」の証言に基づいて、リー大管長が「神殿の上の部屋で3日3晩断食をした。……しかし、彼が受けた唯一の答えは『まだその時ではない』だった」と報告しました。

    しかし、エドワード・キンボールは、リーの義理の息子で伝記作家でもあるL・ブレント・ゴーツへのインタビューについて、その出来事の記録は見つからず、その出来事は疑わしいと思ったと報告しました。

    キンボールは、この問題は「疑いなくリー大管長の心を占めていた」と結論づけました。さらに1973年、レスター・ブッシュは、パッカー長老が、神権の方針は「神によって定められた」ものであることがリー大管長に「明らかにされた」とほのめかしたと報告しました。

  • 1963年、キンボール大管長は息子のエドワードに宛てて手紙を書き、「ほとんどの啓示は……人が……自分に必要だと分かっている何かを求めて、できる限り高く手を伸ばしているときに与えられ、そのとき答えが突然その人に訪れる」と述べました。

    1976年、キンボール大管長は弁護士のF・バートン・ハワードに、「すべての男性に神権を与えることについて心を痛めており、そのことについて15年間祈ってきたが答えは得られていない……しかし、これからも祈り続けるつもりだ」と報告しました。

  • 1973年に教会の指導を引き継いだ際の記者会見で、キンボール大管長は次のように述べました。

    [私はそれについて]ずいぶん考え、ずいぶん祈ってきました。彼らに神権が与えられる日が来るかもしれませんが、その日はまだ来ていません。その日が来るなら、それは啓示の問題になるでしょう。重要な方針を変える前には、主からの啓示によらなければなりません。しかし、私たちは啓示を信じています。私たちは、主からまださらに多くのことが示されると信じています。 . . . 私たちは、御父が与えてくださるあらゆる示唆、御父が与えてくださるあらゆる指示、変化への望みを示すあらゆる啓示に対して、心を開いています。
  • 啓示の7か月後の日付のChurch Newsの記事で、スペンサー・W・キンボール大管長は次のように引用されました。

    それを変更すべき理由をデビッド・O・マッケイ大管長に持ち込んだ教会員がいました。ほかの人たちはジョセフ・フィールディング・スミスやハロルド・B・リー、そしてそれ以前の歴代の大管長たちのもとにも行きましたが、それは受け入れられませんでした。まだその時ではなかったからです。
  • 1978年10月23日、キンボール大管長は南アフリカのヨハネスブルグで、あるグループに対して、自分がどのくらいの頻度で、どのように祈っていたかを語りました。

    私は、神殿まで歩いて行き、厳粛会や十二使徒定員会と大管長会の会合を行う4階に上がった、その翌日からの日々を、今でもとても鮮明に覚えています。そして、みなが神殿を出たあと、私はひざまずいて祈りました。本当に熱心に祈りました。神の子どもたちの多くにとって、私たちの前にきわめて重要なことがあると、私は知っていました。……そのことについて主に話す中で、私たちはこう言いました。「主よ、私たちが望むのは、ただ正しいことだけです。人の心を大きく動かすようなことをしようとしているのではありません。ただ、あなたが望まれることだけを望みます。そして、それをあなたの望まれる時に、あなたが望まれるまで待ち、それまでは求めません。」

    そしてラッセル・M・ネルソンは1979年の自伝の中で、亡くなったハロルド・B・リー大管長から夢の中で「キンボール大管長が受けた啓示と、その後に取った行動は、もしリー大管長が預言者として生き続けていたなら、リー大管長自身が受けて実行したであろうものとまったく同じだった」と告げられたことを回想しています。

  • BYUの教授ジョン・L・ソレンソンは、教会員の受け入れの準備が、主とその指導者たちの時期の決定において、時に決定要因になると考えていました。彼は「指導者もまた、どの程度まで大衆の後に従わなければならないかを理解している人はごくわずかです」と述べました。

    例として、彼は、1933年の禁酒法の問題や公的福祉に関する彼の立場について、会員がHeber J. Grantに従うことを拒んだこと、またBrigham Youngのもとで聖徒たちがUnited Orderを受け入れられなかったことを挙げました。

  • 使徒行伝では、ペテロは福音のメッセージをイスラエル人以外にも広げることについての啓示を受けました。しかし、彼がこの啓示を受けたのは、異邦人であったコルネリオと知り合った後のことでした(使徒10章)。

    現代では、ジョセフ・スミスは、教会が聖餐用のぶどう酒を自前で用意する必要に応じて、聖餐の準備に関する教義と聖約27章の啓示を受けました。

    1890年、教会は公式宣言第1号(「Manifesto」)を発表し、強い連邦政府の圧力と訴追への一部の対応として、聖徒たちに複数婚の実践を控えるよう勧告しました。

  • この種の抗議として最初に知られているものは、テキサス大学エルパソ校(UTEP)の黒人アスリートのグループによって起こされました。彼らは、BYUが信じていると述べて、陸上競技大会をボイコットしました。

    黒人は劣っていて、私たちは悪魔の弟子だ、ということです。
  • 1970年7月11日、ニューヨーク・タイムズは次のように報じました。

    入学選考で人種差別を続けている私立学校の非課税資格は、本日、内国歳入庁が発表した新しい方針のもとで取り消されます。

    この発表の直後、ボブ・ジョーンズ大学は、もはや非課税資格の対象ではないとIRSから通知されました。

  • エドワード・キンボールは次のように書いています。

    一部の論者は、耐えがたい行き詰まりから抜け出す道を認めた「啓示」の「都合のよさ」をあざけりましたが、他の人たちは、BYUと教会に対する目立った抗議行動はここ数年ほとんど起きていなかったと正確に指摘しました。外部からの圧力は、何年もなかったほど低い水準でした。

    そして彼は、父親が1963年に自分に書いた手紙を引用しました。

    神権を授けることも、神権を与えないことも、私の選択でもマッケイ大管長の選択でもありません。それは主の計画です。……主がその制限を緩和する用意ができたとき、圧力があろうとなかろうと、それは実現します。これが私の信仰です。それまでは、私は引き続き戦い続けようと思います。
  • 教会歴史家レナード・アリントンは、1978年6月13日の日記に次のように記しています。

    今朝、新しい啓示の直接的なきっかけの一つは、ブラジルで神殿を開く計画だったという報告を聞きました。
  • ギルベルト・フレイレは、1930年代にブラジルを指して「人種的民主主義の国」という言葉を広めました。彼は、アフリカ系の人々との異人種間の結びつきが広く見られたため(その程度はアメリカ合衆国よりもはるかに大きい)、ブラジルには人種的支配はなく、人種と文化が混ざり合った社会だと主張しました。

  • 1947年、J・ルーベン・クラーク大管長は次のように述べました。

    だれに黒人の血があり、だれにないのかを見分けるのは、非常に難しく、ほとんど不可能です。 . . . もしブラジル人にバプテスマを授けているのであれば、私たちはほぼ確実に黒人の血を引く人々にもバプテスマを授けていることになります。
  • 1977年、当時インターナショナル伝道部会長だったジェームズ・E・ファウストは、ブラジルの聖徒たちについて次のように述べました。

    彼らは神殿の建設のために金銭的な献金をし、ほかの人たちとまったく同じように犠牲を払ってきました。そして私は、これらの人々の忠実さについてキンボール大管長とマッコンキー兄弟に伝えました。

    使徒リグランド・リチャーズによると、スペンサー・W・キンボールは、サンパウロの神殿建設に対するブラジルの黒人会員の貢献について深く考えていました。

    黒人の血を引く人たちは皆、その神殿を建てるための資金を集めてきました。 . . . ブラジルで私たちが感じているこの状況について――キンボール兄弟はそのことでとても心を痛めていました――人々がいかに忠実で献身的であるか、ということです。

    サンパウロ神殿の奉献式に出席したレオネル・デ・サ・マイアは、こう振り返っています。

    エルダー・ゴードン・B・ヒンクレーは……何年も前にブラジルで経験したことを語りました。……[ある父親]には黒人ではない家族がいましたが、血統上の理由があり、神権を受けることができませんでした。……そして彼はその夜、その理由について、また何かできることがあるのかを主に熱心に祈って尋ね、さらに大きな試しが必要になるという答えを受けました。

    サー・マイアによると、ヒンクレー・エルダーは、神殿建設を助けるための献金について、「より大きな試練……であり、その人たちはすでにそれを乗り越えていた」と理解していました。

  • 1969年の第一大管長会の声明では、この禁止の根拠は明らかにされていなかったと述べられています。

    この聖約の時代の初めから、ジョセフ・スミスと、その後に続く教会のすべての大管長は、黒人は、同じ父の霊の子どもであり、また地上の両親であるアダムとエバの子孫ではあるものの、まだ神権を受けることになっていないと教えてきました。その理由は、私たちは神がご存じであると信じていますが、神はそれを人に十分には明らかにしてこられませんでした。 私たちの生ける預言者であるデビッド・O・マッケイ大管長は、次のように述べています。「教会が黒人に対してしているように見える差別は、人に由来するものではなく、神とともに初めにまでさかのぼるものである。……」
    「啓示は、この計画が人のこの世での存在に先立ち、人が前世にいた状態にまでさかのぼることを私たちに確信させます。」

    この声明では、「第一大管長会」は当時デビッド・O・マッケイ大管長が重い病気だったため、N・エルドン・タナーとヒュー・B・ブラウンとされています。

    1973年、レスター・ブッシュは、エルダー・パッカーが、神権の方針は「神によって定められたもの」としてリー大管長に「明らかにされた」と「強くほのめかした」と理解していました。

  • 2013年の福音トピックス・エッセー「人種と神権」には、次のように書かれています。

    今日、教会は、黒い肌が神の不興やのろいのしるしであるとか、前世での行いを反映しているとか、異人種間の結婚は罪であるとか、黒人やその他のいかなる人種・民族の人々も、どの点においても他の誰かより劣っているといった、過去に唱えられた説を否定しています。今日の教会指導者たちは、過去も現在も、いかなる形の人種差別も明確に非難しています。
  • ジャナ・リースの研究によると、その研究では「アフリカ系の会員に対する禁止が『神によって霊感を受けたものであり、1978年まで教会に対する神の御心だった』と回答者が感じていたかどうか」を尋ねました。

    彼女はこう述べています。「モルモンの過半数は、神権/神殿の制限は神の霊感によるものだったという考えを今も支持しています。制限が間違っていたと知っている、またはそう信じていると答えたのは、5人に1人ほどにすぎません。」

  • 末日聖徒の歴史家W・ポール・リーブは、この制限は人為的なものだったと考えています。

    私がそう見るようになったところでは、人種に基づく制限は、Brigham Youngがそれを表明し、その後擁護してから、独り歩きするようになりました。それは彼が最初に口にした時点で石に刻まれたものではなく、天からそのまま下ってきたものでもありませんでした。文脈は地上のものであり、前の世代の先例を破ろうとしない次の世代が続く中で、それは時間とともに歴史的な重みを積み重ねていきました。 . . 私は、人種に基づく制限が神に由来するものだったとは信じていません。
  • 神がイスラエルに40年間荒野をさまようよう定めたのと同じように、神は罰として神権禁止が続くことを許したのかもしれません。

  • 黒人の末日聖徒であるキース・N・ハミルトンは、同様の思いを語りました。彼は、1978年に自分が受けた啓示が正しいというキンボール大管長の確信と、それ以前の教会の歴代大管長たちの確信にも励まされていました。彼はこう言いました。

    私の霊は、教会の神権禁止が主によって設けられ、また解除されたという立場以外を信じることを許しません。
  • 黒人の総権威セブンティであるアフマド・H・コービット・エルダーは、神権の制限について「責任」を誰に負わせるかを考えるのではなく、その試練を祝福として見るべきであり、私たちは間違った問いをしているのだと思うと述べました。彼はこう書いています。

    神権禁止について、初期の教会指導者たち、あるいはアフリカ系の人々のどちらかに責任を負わせようとする形で分析するとき——そして実際、その責任は両方の集団に向けられてきましたが——私たちは本質から気をそらされてしまうと、私は考えています。イエスの教えによれば、私たちの目には梁があり、それがはっきり見ることを妨げています。私たちは、主のより大きく、より永遠を見据えた見方と機会を見失ってしまいます。私たちは実質的にこう尋ねているのです。「先生、神権禁止が課されたのは、黒人の人々が罪を犯したからですか、それとも初期の教会指導者たちが罪を犯したからですか」。救い主が私たちのそばに立っておられたなら、その答えは、盲人について弟子たちが尋ねたときの答えと同じように、未来に目を向けた、希望に満ちたものになると私は思います。罪を犯したのは、わたしの黒人の子どもたちでもなく、預言者たちでもない。ただ神の力が奇跡的な御業によって現されるためである。
  • 末日聖徒の歴史家ロナルド・K・エスプリンは、Brigham YoungとLorenzo Snowの発言について、「神の目的が果たされた」ときにこの制限を変更するには、主の預言者への啓示が必要になると説明しました。

    彼[Brigham]が啓示によって知っていると主張したのは、黒人は「主ご自身の望みによるのでなければ」神権を持てないということでした。そして、その主の望みは、彼自身の時代よりずっと後になってから、預言者に示されるというものでした。Lorenzo Snowは、ヤング大管長が1849年に十二使徒に向けて述べた言葉を振り返りながら、「黒人が決して神権を持ってはならないとか、彼に救いの日が決して来ないという言明がなかった」ことをありがたく思ったと述べています。また彼は、「教会のかしらには常に鍵を持つ人がおり、その人は主のみこころを受けるにつれて、私たちに光を与えることができ、また与えるだろう」と認識していました。Brigham Youngにとっても、Lorenzo Snowにとっても、これは非常に重要な問題であり、主がそれを無視することはないと考えられていました。しかし、主が再び介入するまでは、ヤング大管長は、教会の立場、そして自分の立場こそが唯一適切なものだと確信していました。つまり、黒人が神権を拒まれていたのは、個人的な気まぐれや歴史的な偶然によるのではなく、天からの命令によるものであり、神の目的が果たされるまでは、地上のいかなる力もそれを変えることはできない、ということでした。
  • これに対する注目すべき例外として、ジョセフ・ルモイン・ジェンセンによる公の声明があります。彼は Salt Lake Tribune に全面広告を掲載し、その中でこの制限は霊感によるものだと支持する一方、その解除は霊感によるものではないと批判しました。

    公式の教会の内外には、教義や儀式を変えたり、永遠の聖約を破ったり、会期外に祝福を授けると勝手に考えたりする余地をまったく残さない、高潔で妥協しない勇敢な人々が今でも少数います。
  • デビッド・O・マッケイとハロルド・B・リーは、この禁止が解かれるよう熱心に祈ったと伝えられていますが、「まだその時ではない」と告げられました。

    スペンサー・W・キンボールも、主の時に対して信仰を持っていました。彼は、その啓示が主の望まれる時に「そしてそれまでは来ないように」と祈りました。ある時点で、彼はこのことについて「15年間祈ってきたが、答えはなかった」と述べたと伝えられています。

  • この件に対する個人的な感情はあったものの、BYUの学者ヒュー・W・ニーブレーは、この制限は神からのものだと結論づけました。

    ですから、この問題は結局のところ、これを命じたのが本当に人ではなく神なのかどうかを問うことに行き着きます。これまでそのような問いを立てることを笑っていた教会員も非会員も、今では突然そのことで心を動かされています。ですから、この問いに対してはっきりと肯定で答えられる立場にあることを、私は大きな喜びとしています。これはまさしく主がなさったことです。どうしてそれがわかるのでしょうか。啓示によってです――ただし、私はそれを他の人に授けられる立場にはありません。これはあくまで私自身についてだけ言えることです。そうなると、「黒人問題」は、長年にわたって国中を騒がせた「モルモン問題」と同じように、実体のないものになります。 私個人に任せられていたなら、私がこの世で最後にすることは、一夫多妻制を支持したり、黒人に何らかの制限を課したりすることだったでしょう――そして、兄弟たちが同じ趣旨のことを語るのを私はしばしば聞いてきました。主がジョセフ・スミスに、彼はいつでも友人と敵を見分けられるわけではないと告げられたとき、彼には何が残されていたのでしょうか。「……だから、あなたがたに言う。わたしがこのことに関してすべてのことを世に明らかにするのがよいと見る時まで、黙っていなさい」(教義と聖約10:37)。これによって、預言者がそうであったように、私たちも居心地が悪く、さらには危険な立場に置かれることを認めるとしても、それでもこれは私たちの信仰、希望、そして何よりも愛を試す最善の試練になります。
  • サンパウロ神殿の奉献式に出席したブラジル人会員レオネル・デ・サ・マイアは、エルダー・ゴードン・B・ヒンクレーが、ふさわしい黒人聖徒たちに神権の祝福が与えられ続けてこなかった理由について何年も前に祈ったとき、「より大きな試しの必要」があると告げられ、また、自分たちは入ることを期待していなかった神殿を建てるための犠牲を通して、これらの聖徒たちは今やその試しを「くぐり抜けた」と語っていたことを回想しました。

    また、1960年にSterling McMurrin宛てた手紙の中で、BYUの教授John L. Sorensonは、指導者は会員が進もうとする以上には会員をあまり先へ導けないという考えを述べました。例として彼は、公共福祉や禁酒に関してHeber J. Grantの指導に会員が従わなかったこと、またBrigham Youngの下で末日聖徒がUnited Orderの理想を実践できなかったことを挙げました。

  • 2018年、ダリン・H・オークス管長は、主が理由よりも戒めを与えることのほうが多いと説明しました。

    私は、これらの制限によって苦しんだ人たちや、それを批判し理由を求めた人たちが経験した痛みとフラストレーションを目の当たりにしました。私は当時示されていた理由を調べましたが、そのどれについても真実だという確認を感じることはできませんでした。私は祈りながら学ぶ中で、一般的に、主はご自分の僕たちに与える戒めや指示について、その理由を示すことはめったにないということを学びました。私は、私たちの預言者である指導者たちに忠実であり続けること、そして、この制限が始まった当初から約束されていたように、いつの日かすべての人が神権と神殿の祝福を享受できる日が来るよう祈ることを決意しました。

    「人種と神権」に関する『福音のテーマに関する論文』では、教会は「黒い肌は神の不興や呪いのしるしであるとか、前世での行いを反映しているとか、異人種間の結婚は罪であるとか、黒人やその他のあらゆる人種または民族の人々が、どのような意味でも他の誰かより劣っているとかいう、過去に唱えられた理論を退けています。今日の教会指導者たちは、過去であれ現在であれ、いかなる形の人種差別も明確に非難しています」と述べています。

  • エルダー・マッコンキーは次のように書きました。

    啓示は教会の大管長にもたらされました。また、その場にいた一人一人にももたらされました。 . . .
    私の判断では、これは主によってこのような形で行われました。なぜなら、それは非常に重大で重要な意味を持つ啓示だったからです。それは、手続き面でも管理面でも教会全体の方向を完全に変えるものでした。生者にも死者にも影響を与えるものでした。私たちと世界との関係全体にも影響を与えるものでした。私は、これほど重要なことだったので、主は、その出来事が実際に起こったことを証言できる独立した証人を求められたのだと言っています。
  • キンボール大管長の息子エドワード・L・キンボールによると、預言者は後に、6月1日に第一大管長会と十二使徒定員会とともにした経験について、次のように述べました。

    そこで私は圧倒されるような霊を感じました。それは、それまで私たちが経験したことのないほどの一致が、激しく押し寄せる洪水のように感じられるものでした。
  • オスカー・W・マッコンキーは、キンボール大管長が1980年の総大会のために用意した話の事前原稿を受け取ったと述べていますが、預言者は「話を短く切り上げ」、集会では次の段落を読み上げなかったと述べています。

    1978年6月8日[注:実際の日付は6月1日でした]、主は聖霊の力によって、わたしと顧問たち、そして十二使徒定員会に、あらゆる国民、人種、肌の色の人々に福音の完全な祝福が及ぶことが、主の思いであり、御心であり、目的であることを明らかにされました。 そのとき、神の御霊の力によって与えられる神の声、「すべてのものを通してささやき、またすべてのものを刺し通す静かな細い声」(教義と聖約85:6)によって、聖なる神権、神殿のあらゆる祝福、永遠の婚姻を含め、それに伴うすべての責任が、今や個人のふさわしさだけを基準として、あらゆる人種と肌の色のすべての男性に提供されるべきであることが明らかにされました。
  • 1979年1月6日にChurch Newsのジェリー・アバントとのインタビューで、キンボール大管長は次のように述べました。

    私たちはこのことをとても真剣に、よく考え、祈りながら検討しました……それから私は、時が来ても十二使徒たちには家に帰らないでほしいと頼みました。つまり、最初の会合のあとも、ということです。 . . . 私たちはこの特別な祈りの輪を行い、そのとき私は、時が来たのだと知りました。 私は自分自身の中で大きな葛藤がありました。主に、黒人は神権を持てないという考えの中で育ってきたからです。私は、自分の残りの人生のあいだ、死ぬまで、それを守り、擁護するために[判読不能]するつもりでいました。 しかし、この啓示と確信はとてもはっきりと私に与えられたので、そのことについて疑問の余地はありませんでした。
  • 1978年6月9日に神殿で行われた中央幹部の会合で、ロムニー管長は次のように述べたと伝えられています。

    告白しなければならないことがあります。この問題について話し合うたびに、私はキンボール大管長に全面的に支持すると伝えてきました。しかし、もしその決定が私に委ねられていたなら、私たちはこれまでずっとその方針を持ってきたのだから、どんな反対があってもそれを貫くべきだと感じていたでしょう。今、私は自分の立場を180度変えました。私はもはやこの決定の支持者であるだけではありません。私はその提唱者です。

    ロムニー大管長の死去と同じ年に出版された伝記には、彼がその啓示に至るまでの出来事を目撃していたことが述べられていますが、その出来事自体は描写されていませんでした。

  • 1978年9月30日に行われた総大会の部会で、タナー管長は、公式宣言2を支持の票に付す前に、次のように述べました。

    その年の6月上旬、第一大管長会は、スペンサー・W・キンボール大管長が、ふさわしい教会の男性会員すべてに神権と神殿の祝福を拡大する啓示を受けたと発表しました。キンボール大管長は、神聖な神殿の聖なる部屋で長く黙想し祈った後にこの啓示を受け、それからそれを顧問たちに提示し、顧問たちはそれを受け入れて承認したことを、私が大会にお伝えするよう求められました。続いてそれは十二使徒定足数に提示され、全員一致で承認され、その後、ほかのすべての中央幹部にも提示され、同様に全員一致で承認されました。
  • エルダー・ベンソンの伝記作家であるシェリ・L・デューは、彼の日記から次の記述を記録しています。

    祈りの後、私たちは、私がこれまでに経験したことのないほど甘美な一致と確信の御霊を感じました。 . . . 私たちは互いに抱き合いました。それほどまでに、その場にあった甘美な御霊に深く心を打たれていたのです。私たちの胸は、自分たちが下した決定の正しさによって熱くなりました。霊感を受けた指導者たちと、偉大で永続する啓示の原則に、神に感謝します。世界中のあらゆる業の中で最も偉大なこの業に関わっていられることは、なんという祝福でしょう。
  • エルダー・ピーターセンは南アメリカで任務に就いており、その啓示が自分に読み上げられた後、遠隔で承認しました。エルダー・ピーターセンの伝記作者ペギー・ピーターセン・バートンによると、彼はこう言いました。

    主から新しい啓示が来たことを知って、私はとてもうれしく思いました。 . . . 電話で私はキンボール大管長に、その啓示も彼も全面的に支持すると伝えました。
  • エドワード・L・キンボールによると、入院中で、その6週間後に亡くなったステープリー・エルダーは、第一大管長会の3人全員の訪問に対して、「この件では、わたしは兄弟たちと一緒にいます」と答えました。

  • エルダー・リチャーズの伝記作家であるフランシス・ギボンズはその場に居合わせており、彼がその出現について語ったことを firsthand で説明しました。

    エドワード・L・キンボールによると:

    スペンサーは、それは自然なことだと思うと述べました。「ウッドラフ大管長は、Manifestoで同じようなことをある程度経験していたので、とても関心を持ったことでしょう。」
  • エルダー・ルグランド・リチャーズの経験について、より完全な説明は次のとおりです。

    私たちは祈りの輪の中でそのことについて祈りました。そして、その会合が終わった後にももう一度祈りの輪を開き、彼がその祈りを導きました。主が、主に喜ばれ、主の子供たちの祝福となることを行うために必要な霊感を、私たちに与えてくださるよう祈ったのです。
  • エルダー・ハンターの伝記作家エレノア・ノウルズは、彼の日記から次の記述を引用しています。

    その祈りに続いて……評議会において、これほど大きな全員一致が見られたことは、ほとんど、いや一度もなかったのではないかという、皆に共通する思いについての発言がありました。……数人の兄弟たちは、御霊の力強い証について……そして、それがその啓示の神聖な起源をどのように裏づけたかについて語りました。」
  • 表に記されている説明に加えて、ヒンクレー大管長は後に次のように述べました。

    部屋には神聖で清められた雰囲気がありました。私には、天の御座と、同胞たちに加わられてひざまずき、願い求めていた神の預言者との間に、まるで通路が開いたかのように感じられました。……ペンテコステの日にあったような「激しい風が吹いてきたような響き」も、「炎のような分れた舌」もありませんでした(使徒2:2–3)。しかし、聖霊がそこにおられたので、ペンテコステの霊がありました。 私たちの肉体の耳に聞こえる声はありませんでした。しかし、御霊の声は確かさをもって私たちの心と魂そのものにささやきかけました。……その場にいた私たちのうち、その後まったく同じではいられた者は一人もいませんでした。
  • 表に抜粋されている1978年6月1日の日記の記述に加えて、エルダー・モンソンは1週間後に第一大管長会が述べた次の感謝の言葉も記録しています。「会合にみなぎっていた平安と一致の御霊は……これまでで最もすばらしいものであり、それは主が私たちの話し合いを喜ばれていた証拠であった。」

  • エルダー・エドワード・デューベは、2016年8月21日にトーマス・S・モンソン大管長と次のようなやり取りがあったと記録しています。

    モンソン大管長にあいさつしようとかがみ込むと、大管長は両手を差し伸べて私の肩にそっと触れ、私の目を見られるように私を引き寄せました。続いて大管長は、教会にいる忠実でふさわしいすべての男性が聖なる神権を受けられるようになった1978年の啓示に至る出来事を、私に語ってくれました。そしてこう言いました。「私はその場にいて、それがその時だと感じていました。」さらにこう続けました。「私たちは皆、それがその時だと知り、そう感じていました。」私は啓示の過程について多くを学びました。大管長が話したことの大部分は、私だけのためのものでした。あまりに神聖なので、分かち合うことはできません。
  • レナード・J・アリントンによると、エルダー・ボイド・K・パッカーは、この出来事のすぐ後にバスで隣り合わせに座っていたとき、ギル・ワーナーに次のように語りました。

    話し合いのある時点で、キンボール大管長は自分がグループを代表して祈ってもよいかと尋ねました。そこで彼は祭壇のところに行き、主に心を込めて祈りました。祈りのある時点で、パッカー・エルダーによれば、その場にいた全員が、どのような決定でなければならないかを悟りました。彼は何が起きたのかは語りませんでした。これは間違いなく、彼が話してはならないとされていた部分なのでしょう。しかし、その場にいた全員に明白だったと思われる、何らかの示現がありました。パッカー兄弟はこのことに触れたとき、すすり泣きしました――これは彼がふだんすることではありません。明らかに、それは心を打つ経験でした。
  • Ensignの記事で、ブレック・イングランドは、エルダー・アシュトンが次のように述べたと引用しました。

    1978年の神権に関する啓示には、私がこれまでに感じた中で最も強い霊的な印象が伴いました。しかし、それも第一大管長会と十二使徒が何週間、何か月、さらには何年にもわたって祈り、探し求めた末にもたらされたものでした。
  • エルダー・マッコンキーは、自分の経験について詳しく説明し、次のように述べました。

    この祈りの最中に、啓示が与えられました。主の御霊がわたしたち全員の上に力強くとどまり、わたしたちはペンテコステの日やKirtland Templeの奉献のときに起こったことに似たものを感じました。
  • エドワード・L・キンボールとのインタビューで、エルダー・L・トム・ペリーは次のように述べました。

    預言者ジョセフ以来、主に願い求めることにこれほど前向きで、またこれほど受け入れる姿勢のある大管長はいなかったと思います。私たちは、彼が主の御心を受けたことを知っていました。. . .
    まるで大きな重荷が取り除かれたかのようでした。彼はほとんど言葉を失っていました。喜びを抑えるのはほとんど不可能なほどでした。何も言われませんでしたし、言う必要もありませんでした。私たちは答えが何であるかを感じ取り、決定は下されたのだと分かりました。私たちの間には大きな一致の感覚があり、それが終わったことへの安堵もありました。その後、私は十二使徒定員会のほかの会員たちと話しましたが、彼らも私と同じように感じていました。十二使徒定員会は、もう以前と同じではないだろうと私は思います。それは一生に一度の経験でした。
  • 2012年6月、エルダー・L・トム・ペリーはエルダー・アフマド・S・コービットに次のように述べました。

    神権に関する啓示の経験は、木曜日の神殿での兄弟たちの会合に38年間出席してきた彼にとって、その中で最も霊的で重要な経験でした。彼は、それは当時の年長の兄弟たち全員にとっても同じだったと言いました。彼の特別な証は、聖霊の力によって私の心を打ちました。私は感情がこみ上げ始め、感情的になっていることを許してほしいと彼に言いました。すると彼は落ち着いた声でこう付け加えました。「私たちだけではありませんでした。」
  • 表の説明に加えて、エルダー・ヘイトはその出来事について何年も後に再び語りました。

    私はその場にいました。あの部屋で御霊が注がれ、その力がとても強かったので、私たちはその後だれも話すことができませんでした。私たちはただ静かにその場を去って、事務室に戻りました。天からの霊的な経験のために、だれも何も言えませんでした。
  • キンボール大管長の息子エドワードによると、父は「およそ30通の否定的な手紙を受け取り、そのほとんどはモルモンではない人たちからで、主に啓示を受けたと主張することを詐欺だと呼んだり、自分の人種への裏切り者だと呼んだりする内容でした」。

  • Apostolic United Brethrenは、1951年ごろに、現在はFLDS教会として知られているショートクリーク(アリゾナ州コロラドシティ)のグループから分かれた原理主義の団体です。

  • ジョセフ・ラモイン・ジェンセンのグループは次のように書きました。

    公式の教会の内外には、教義と儀式を変えたり、永遠の聖約を破ったり、正式な場でないのに祝福を授けようとしたりする余地をまったく残さない誠実さを持つ、勇敢で妥協しない人々が、今でも少数ながらいます。 この忠実な少数の人々は、神の導きの下でシオンを贖い、地上に王国を築き、キリストの千年統治の時代を迎えさせるでしょう。初めに述べたように、L.D.S. Churchの6月9日の決定によって、Pearl of Great Price、あるいはその一部が否認されようとしているように見えます。それと同時に、その聖典と調和する言葉を残した教会の創設時の預言者たちも否認されようとしています。私たちはこの問いを繰り返します。末日聖徒たちは以前の啓示に忠実であり続けるのでしょうか。それとも、この重大な時代の圧力に屈するのでしょうか。 あなたはどちらの立場に立ちますか。
  • スペンサー・W・キンボールの息子であり伝記作家でもあるエドワード・L・キンボールは、次のように報告しています。

    発表から数日のうちに、キンボール大管長のもとには、喜びと感謝を表す会員からの手紙が100通以上届きました。会員ではない人たちからの感謝の手紙も届き、その中にはカーター大統領からの電報も含まれていました。……一方で、否定的な手紙も約30通届きましたが、そのほとんどはモルモンではない人たちからで、主に、啓示を受けたと主張するのは詐欺だとか、自分の人種を裏切った者だとかいう内容でした。

    Church Newsは、この知らせに対する反応について次のように報じました。

    教会の広報担当者ジェリー・ケイヒルは、この発表の知らせによって多くの方面から好意的な反応が寄せられていると述べました。 彼のオフィスでは16本の電話回線が3時間にわたってひっきりなしに鳴り続けました。電話の中には、その知らせが本当かどうかを確認するものもあれば、喜びを伝えるものもありました。 彼は、報道が正確だと聞いて、うれしさのあまり泣き崩れた人もいたと述べました。
  • Church News は、モンロー・フレミングが次のように述べたと報じました。

    これは主が備えてくださったもののように思われます。 . . . 門は下ろされています。 . . . あとは、私がそこに入るにふさわしくなれるよう、自分の人生を築き上げるかどうかです。

    歴史家のマーガレット・ブレア・ヤングとダリウス・エイダン・グレイによると:

    モンロー・フレミングはそれから間もなく亡くなりましたが、1978年にはまだ生きていて、神権に聖任されました。長い間待たされたことをどう感じているのかと人々に尋ねられると、彼はあのやさしい笑顔を見せて、「今わたしたちにできるのは、手を取り合って前に進むことです。過去のことは忘れましょう」と言いました。
  • 例えば、ジョセフ・フリーマン・ジュニアは次のように報告しています。

    このようにして、1978年6月9日、いつもと変わらないように始まったその日に、その心躍る時宜にかなった啓示が世界に向けて発表されました。そしてそのわずか2日後の6月11日、私の頭に手が置かれ、聖なるメルキゼデク神権におけるエルダーに聖任されました。
  • ジェネシス・グループの顧問であるジョセフ・フリーマンは、1976年の時点ですでに自分の聖任について予感を持っていました。彼は啓示が発表されてから3日後の1978年6月11日に、メルキゼデク神権のエルダーに聖任されました。その後、彼はこう書いています。

    1、2週間もたたないうちに、トーと私にワードやファイヤーサイド、MIAグループ、ステーク大会で話してほしいという招待の電話がひっきりなしにかかってくるようになりました。もちろん、私たちは喜んで福音についての証を分かち合いましたが、これほどまでに私が注目の的になっているのは、少し不思議にも思えました。… ある時は、6か月先まで予定がびっしり入っていました。 私はもう自分の感情を抑えられませんでした。涙が頬を自由に流れ、天の御父…そして家族への愛で胸がいっぱいになっていました。
  • ジェネシス・グループのアドバイザーだったボイド・K・パッカー・エルダーは、6月の終わりごろにラフィンに電話をかけ、もう神権を受けたかどうかを確認しました。ラフィンが「まだです」と答えると、パッカー・エルダーは次の日曜日[1978年6月25日]にラフィンのワードに来るよう手配しました。そして、ラフィンにメルキゼデク神権を授けました。

    その後、モンソン大管長はラフィン・ブリッジフォースとモンロー・フレミングに電話をかけ、神権を受けたことを祝福しました。